悪夢のような異臭の中心で静かに鎖に繋がれ、頭を垂れる″彼″は、枷と皮膚が擦り切れ出来た傷口を更に蛆に喰われ、手首と足首は骨があるのみ
腐った肉には丸々と太った蛆が集っているのに、一部皮膚の所々異常に盛り上がり、蛍光緑や青にに変色し、無数に穴の開いたそこから毒を含んだミストを呼吸する様に噴射しているのが分かる
蛆に喰われて剥き出しになった骨ばかりの細い手足と異常に盛り上がった皮膚のコントラストが、更にお互いを増徴させて余計に際立って見える為に、人間である事以前に生き物であるという事が信じられない

頭部は無数の茶色いシミの様な斑点模様が出来ている。割れた頭蓋骨から見える、柔らかく握りつぶした豆腐の様なあれは脳だろうか
僅かに残った数本の毛が艶のない銀色をしていたのを見てゲイルは、ああ″彼″はそう言えば銀色の髪だったのだと思い出すのだった

今この瞬間も、蛆はもう欠片もない新しい肉を求め″彼″の体中をを這いまわり、時々″彼″の盛り上がった皮膚から噴射される毒性の強いミストにもがいている
姿は見えないが、蛆が居るという事は蠅が居るのだろう

食えるところは全て食われ、食い荒らされて千切れたぶよぶよとした肉は骨にぶら下がっている。肋骨が見え隠れするその真上に息付く剥き出しの左胸は、赤々と点滅しながらそれでもなお全身に血流を送る
その他五臓六腑のうち食われていない腎臓と肝臓、そして四分の一を残して全て食われた大腸も心臓と同じように思い思いの色に点滅し、しかし寄生虫の様なものを宿らせたり盛り上がった皮膚と同じように毒ガスを噴射しているためにその機能は働いていないようで、石の様に黒光りした表面をつるつると蛆が滑っている腎臓はその中で一層目を引いた

皮膚と臓器の極彩色の中、骨の白さが際立っている

体の所々から見えるその白さに、まさかこんなに安心を覚えるなんて思わなかった
繋がれた枷の先、関節や筋を繋ぎ止めていた毒素のない腐った筋肉が食いつくされて″彼″の指は形すら確認できなかったが、掌の骨の形を見てやっと″彼″が自分と同じヒュム族なのだとゲイルは理解した


兄さんは、牢の外からこれを見ていたって言うのか

牢を開ける前、チョーサーが魔法陣を描く間、ゲイルがよく手入れの行き届いた武器や防具に興味を持っている間、エメットは、丁度この前から真正面にグツコーを視界に捕らえていたと言うのか
無機質な目だった
無機質に見れるほど穏やかな光景では無いのに

それを真っ直ぐに見ていたというのか

ゲイルは、己の吐き気を必死に抑えてグツコーを真っ直ぐに見た
"彼"の目は、まだ食われていなかった
こちらから見える左瞼は殆ど食われていたが、目は食われていなかった
焦点の合っていない、まるで眠っているかような瞳の色が、とても神秘的な赤紫色だった
恐らくこの色だけが、彼が元々有していたそのままの色なのだろう
人間とは到底思えない肉の塊が持つその目は、けれどもゲイルが見たどの目の色よりも美しかった

兄さんは

ちらりと、エメットの方を見やる
彼も腰の剣に手を掛けたまま、動かない

兄さんはこの目を通して、人間だった頃のグツコーを見ていたんだ

途端に何故だろう、この異形の者が急に人間としてゲイルの中で認識された

こんな姿になっても尚独りでない″彼″に、嫉妬したのだ


「行くよ」


独り言の様に静かな言葉と共に同じく静かで自然な動きで腰に携えたセクエンスを引き抜き、ゲイルはグツコーの元へ走り出した
真っ直ぐと走りながら徐々に加速しながらグツコーへ接近し、そのままの勢いでしゃがみ込み剣を突きたてると、まず左足首の枷と壁を繋ぐ鎖を断ち切る

キィン!

外れた鎖は、ジャラリと音を立てた
まずは一つ。次は右側に回って手足両方の枷を外さなければ
とにかく今は何も考えずに、目の前の腐敗した化け物に別れを告げたかった
その為には、己の与えられた役割を迅速にこなすしか、今のゲイルに方法はなかった

しかしゲイルが聖剣を構え直したその時

「うわっ!!」

行き成り、グツコーの左足がゲイルの脛に蹴りを食らわせた
そのまま前のめりになってグツコーの腹、そのまま倒れてしまえば膝小僧に目が刺さりそうになるのを、慌てて体勢を立て直そうと背を逸らし逆に尻餅を突いてしまう
左手を突いた先に居た蛆を誤って潰してしまったが、もうそんな事に構っていられる余裕はなかった

顔を上げると、明らかな敵意を持って赤紫の瞳がゲイルに焦点を合わせた

ウぅ…ゥ…ァ

背殆ど骨だけになった顎を動かし背骨が見え隠れする首を持ち上げ、ひゅうひゅうとなった喉から呻きのような音が聞こえたかと思うと、グツコーは尻餅を突いたままのゲイルに更に連続的に蹴りを入れる
すると活発になった動きに合わせて毒ガスの噴射も激しくなった

冗談じゃない!!

腹を骨の足で蹴られながら、何とか体制を整えようと蛆の這いまわる地面を後ろ向きに転がり、立ち上がったゲイルは間合いを取る
そのまま立ち上がり瘴気を吸わないように口と鼻を慌てて空いている左手で覆うと、右手足を鎖に繋がれたままのグツコーと睨みあう
背筋を曲げた″彼″の背格好は、丁度己と似ていた

アぁ…ア!

呻き声とともに素早い左ストレートが飛んで来る。しかし防御の体制をとった少年の視界右側から真っ直ぐ投擲されたランプによって、その上腕骨が派手に破壊された事により失敗に終わった
驚いて後ろへ半歩飛びのいたゲイルが、ランプの飛んできたそちらへ首を巡らせると
「ゲイル!早く」

左手を振り被った姿勢で、エメットが叫んでいた
同時にグツコーは砕けた肩に目をやり、腐った肉のボトリという音を立てて地に落ちた己の左腕とその傍の派手に壊れたランプを見てやっと事態を理解したようだった

アアアアア…!

絶望にも似た声を上げて、やっとグツコーが走り寄ってきたエメットに焦点を当てるのと、ゲイルがグツコーの右手の枷を外すのは同時だった
右手が自由になったグツコーは、鎖が外れた勢いのまま傍に居たままゲイルの顔を殴りにかかったが、それを走り込んできたエメットが剣で防ぐ
固い物同士がぶつかる鋭い音が響いたかと思うと、直ぐ様エメットはすっと腕の力を抜いて下がった
するとグツコーの体は前にのめり、右足がまだ繋がれたままの為どさりと地面に倒れ込む
その隙を見てゲイルはグツコーの右側へ回り込み、最後の枷を外すと、牢の外に居るチョーサーに叫んだ

「チョーサーさん!」
「御苦労!今からワープの詠唱を開始する。エメット、先に外に出てきてオレの言う所に立て。ゲイルはそれまでグツコーの注意を引きつけ、詠唱が終わるギリギリに魔法陣の所までグツコーを誘導して来い!」

一通り次の段階を説明し終えるとチョーサーは、古代語で魔法の詠唱を開始する
今でも使われるテレポと違い、ワープは自分以外の人間で有ったり物で有ったりを移動させる魔法で、現在ではほとんど使われていない
故に詠唱文句は古代語で長く、時間がかかる

どのくらいのタイミングで行けばいいのか、ゲイルにはさっぱり分からなかったが

「頼んだぞ」

無理に口元に笑みを浮かべ、ぎこちない笑顔を残して己に全てを託したエメットの信頼を裏切るわけにはいかないのだ
ゲイルは彼が地に落ち、神経系が切れて毒ガスを噴き出さなくなったために蛆が群がり蝕み始めたグツコーの左腕を拾い上げ抱えて牢の外に出たのを見届けると、剣を逆手に構え直す
そして既に立ち上がって体勢を立て直して居ながら相変わらずエメットを目で追っているグツコーの肝臓に渾身の力を込めてセクエンスの柄を叩きこんだ

ウァ…ァ…!

体の至る所から、毒ミストが一斉に吹き出る。ダークオレンジに点滅しながら不規則で異様な伸縮を繰り返していたていた肝臓は、じゅぶりと潰れて気味の悪い色の体液をびしゃびしゃと吐きだし、それが先程左肩を粉砕した時に割れて飛び散ったランプの油と混じってじゅぅ…という音とともに蒸発してゆく

ゲイルはこれ以上ないと言うほど赤紫の目を鋭く睨んで、肝臓からセクエンスを引き抜き順手に構え直す。硫黄とプラスチックを燃やした時の様な色と臭いのする煙になった胆汁に目が霞んで涙が出そうになったのも相俟って、その目つきはかなり険しい

潰れた臓器をグツコーは、骨ばかりになった右腕で掻き毟る
すると骨が更に傷を広げ、ぼたりぼたりと肉が剥げ落ち、そこに又蛆が群がった

グツコーと対峙しながらゲイルは、又兄の親友を思い出した

自分は彼を薄情な奴だと思っていたが、若しかすると彼はこうなる事が全てわかった上で兄と距離を置いたのだろうか
かつての英雄が、こんな姿になっているのを知っていたのかどうかは定かではない
それでも尚もこの異様な生物に依存するエメットの姿を知っていたのではないか
その姿を見て、耐えられなくなったのではないか
今では、そんな風に思えて仕方がなかった

俺だって、最初からこんな事になるなって知っていたらこんな所に居なかったさ

けれどももう遅いのだ

彼は、″彼″と対峙し、剣を向けた

もう、他人事ではないのだ

ゲイルは、尚も肝臓をかきむしるグツコーの足首に足払いを掛けると。詰め過ぎていた間合いを十分にとるため勢いを保ちながらステップで下がる
今のまま放っておいても己の体を破壊しやがて自滅しただろうが、それでは意味がない
彼の仕事は、グツコーの注意を引いてチョーサーがワープの詠唱を完成するまでの囮となると同時に、グツコーを上手く引き付けワープポイントまで誘導する事なのだ

故に、多少の危険を冒してでもグツコーの関心を己に向ける必要が有った
ここで彼を殺してしまっては、エメットがこれから行う処刑にも差し支えるだろう。そうなっては意味がないのだ
多少遣り過ぎた気がしないでもないが、チョーサーは剣を引き抜き攻撃をすることを許可した
ここから先は、自分の遣り易いように遣らせて貰っても、誰も文句を言わないはずだ

足払いを掛けられてバランスを崩したグツコーは又うつ伏せに倒れそうになる
しかしそこで右手を付いて完全に倒れこむことを防ぎ、ゲイルに顔を向けた
顔の肉は殆ど残っておらず、瘴気の噴射孔が穴が疣のように残った皮膚をびっしりと覆っていて、喉が上下する度にそれらからガスが噴き出した
両瞼の無い赤紫の双眸がゲイルをじっと睨む
ゲイルも吐き気を必死に堪えてその目を外さずに睨み返す

今下手に動けば返り討ちに会う

間合いを考え、向こうがこちらに注意を向けた後は坊一線で行こうと考えていたゲイルだが、グツコーはこちらを睨んだまま動かない
これでは誘導が出来ない。作戦変更かとゲイルが剣を構え直したのと

うガ…ァアアあァあ!!

グツコーの様子が変貌したのは同時だった

「!?」

それまで二本脚で人間のように立っていた″彼″は獣の様な体制になって、歯を剥き出し、俊敏な動きでゲイルに飛びかかってきた
余りに行き成りの事にゲイルは咄嗟にセクエンスを水平に構えて防衛する
グツコーの歯と騎士剣が固い音を立てた
体中から噴き出す瘴気の勢いは更に激しくなり、至る所から蒸気を上げている
ゲイル顔にはねとりとした黄土色の唾が飛び散り、体のあちらこちらにも五臓六腑それぞれの体液消化液が飛散し派手な色の染みを形成する。体液同士が化学反応を起こし、ゲイルの衣類は所々焦げて、あるところは穴が開き、又別の所は縮れた

そのまま双方とも力任せに睨みあって歯を刃とぶつからせていたが、グツコーが不意に自由な右腕でゲイルの肩を引っ掴むと大量の蛆の中へ突き落とした
仰向けに倒れ込んだゲイルの体をグツコーは、左肩を抑え込んでいた右腕を首に強い力で圧迫し、その上に様々な体液の雨が降らせる

「か…はっ…!!」

押し倒されたゲイルは、必死に右腕でグツコーの首を押し返そうと応戦するが、体重も加わったグツコーの力の強さと間近で嗅ぐ酷い異臭に思うように力が入らない
手と剣の柄の間に、つるつると生温い唾が入り込み手が滑る
今にも手を滑らせ剣を手放しそうになるのを踏ん張り、見上げたグツコーの目は、捕食をする獣の如くギラギラと不気味な光彩を放っている
相変わらず神秘的な赤紫の瞳は、しかしもう綺麗な色をして居なかった

「ぐぅ…っ!」

首を絞められ呼吸が儘ならず、ゲイルは必死に酸素を求めてもがき苦しむ
しかし吸い込めど吸い込めど体内に入ってくるのは嗅ぎたくも無い死の臭いで、彼が抵抗する度骨ばかりになったグツコーの右手の平は益々力を込め、細かい傷をゲイルの首筋へと刻みこむ
じたばたと手足を動かすが、唯空しくぐちゅぐちゅと蛆を潰すのみ
手の力がすっかり抜けてしまったことにより、グツコーに更に顔を近づけられ、いよいよ至近距離から漂う異臭にも耐えられなくなって、涙と鼻水が止まらない
このままでは、何れ押される力に抗えなくなってしまう
そうすれば、両刃の剣が首筋に当たってしまう
更に力を加えられれば、首に出来た大きな傷に背後の蛆が群がるだろう

その後は、考えたくもない!

畜生、どうすれば…!と思ったその時、グツコーの歯の力が急に抜けた
絶体絶命に目を瞑っていたゲイルは、押しの力が無くなった事と同時に瞼の裏に眩い光を感じた
余りに眩しい火花に驚き薄目を開けると、首の十字架とセクエンスが反応して微かに白く発光をしているのが見えた

「…!もしかして」

剣が己の内なる光を集める技、それは、ヒュムの技では彼が知る限り一つしかない

はっきりと目を開け、急に力の抜けた顎から自分の方へ勢い良く剣を引き寄せ歯の間から抜くと、そのまま左肩に蹴りを食らわせそのまま上体を起こすことでグツコーの右腕をも撥ね退けたゲイルは、勢いのままに光輝く聖剣を一線する

「ホーリー…ブレード!!」

避ける事も出来ず、聖属性の強力な一撃をまともに食らったグツコーの肉は引き裂かれ、肋骨が何本かばらばらと砕けて極彩色の体液が混じり合った汚い水たまりの上に水飛沫を上げて落ちてゆく

アアアアアアアアアァァ…!!

この世のものとは到底思えない耳を劈く様な悲鳴が壁に反響するのと

「ゲイル!」

エメットが叫ぶのは同時だった
声のした方、檻の外を見ると魔法陣は青く輝き、カーテンドレープを思わせる同じ色の光が彼の周囲を包み込もうとしている
そろそろこちらへ来い、と言う事なのだろう。兄に頷きしっかりと体勢を立て直し視線を戻したゲイルにまたグツコーが飛びかかる
しかし同じ手は二度通用しない。今度は上手く受け流し、攻撃を交わしながらゲイルは檻の外へ″彼″を連れ出す
一度コツを掴むと彼はそのまま同じ要領でチョーサーが詠唱をしながら目線で示した場所へグツコーを誘導することに成功する

「ワープ!」

絶好のタイミングで、チョーサーが魔法を完成させると、魔法陣が一層青く光りかがやき、視界が徐々に歪んでゆく

余りの青の眩しさに耐えきれずに目を閉じたゲイルが次に目を開けるとそこにはもう、あの静かな広い部屋と赤い皮膚の守護騎士は視界に無かった




















グロテスク