「!」

それが現れるのは、いつも突然過ぎる

壁に行き当たり、角を右に曲がったその先に
また、魔法障壁が有った

黒い色をした、はっきりと壁と分かるほどの分厚いそれは
先の二つとは違い、水面のように表面が揺れているわけでは無かった
余りに分厚く、いっそ冷たさを感じるほどに重い風貌をした今回の物は
開けてはいけないパンドラの箱をゲイルに連想させた

彼らから数秒遅れてチョーサーが角を曲がり、ゲイルの左側へ並んだ
ここがプリズンの最深部
その割に明るいのは、通路が広いせいで風と光を提供する窓が背後に感じられるからだろうか
目前にこんな黒い壁がなければ寧ろ、死に物狂いで走って通過した死刑囚共の区画の入口の方が不気味に感じるのに、圧倒的な存在感を持つ最後の魔法障壁はこの空間に恐ろしく似つわかしくなさ過ぎて逆にゲイルの不安感を煽った

両脇の二人は相変わらず顔色一つ変えない。否、チョーサーの息を飲む音が今聞こえた
逆隣りのエメットも緊張し過ぎて顔色を変える余裕すらないのだろうか。だとしたらこの中で一番余裕なのは自分なのだろうか

ゲイルには全てが、可笑しかった。決して顔に出して笑っているわけではなかったものの、油断をすれば今にも口元が緩みそうだった。だが笑っていられるのは己が何も知らないからだという事も、彼は自覚していた

「本当に、良いンだな」

何度聞いてもエメットの決意は変わらない。分かり切ってた上でそれでもチョーサーが聞きたがるのは、単に自己満足から来るものである事も

「俺は一度決めた事は何が有ってもやり通す」

それを律儀に返すエメットも

「処刑台へは、オレがワープでお前達を飛ばす」

障壁を前に事前打ち合わせをするのも、余りにも予想通りでゲイルには可笑しくてたまらなかった

結局どこまで行ってもゲイルにとっては他人事なのだ。全て自分には関係のないところで物事が進んでゆく。それに無理に介入しようとするほど、彼は幼くなかった

そんな彼に構わず、真剣な顔をしてチョーサーはエメットとゲイルの二人に向けて続きを話す

「エメットは知っての通り。″彼″はこの向こうの区画で、牢の中で更に足枷と、右手に手枷を嵌めて収容してある」

ああそうか、完全に自由を奪ってしまえばそこから脱走しようとしてもできないのか。故に窓が有っても脱走しようという気も起きないのだろうか。しかしそんな事を今聞かされたところでやはり他人事でしか無い、とゲイルは思っていたのだが

「牢の錠はここに有る。エメット、これをお前に。そしてゲイル」

エメットに牢の鍵を渡すと、チョーサーはゲイルへと真っ直ぐ視線を寄越す
その目が余りにも真剣で、ゲイルはもう笑えなくなっていた

「なん…ですか?」

目線を逸らさないようにするのが、彼に出来る唯一の意思表示だった
ああ、俺はいつの間にか他人じゃなくなっていたのか。それに気付くにはあまりにも彼は遅すぎた
チョーサーは、自分に何か重大な役目をさせようとしているのだ
そしてゲイルのその勘は、今日という日に限って限って恐ろしく冴えていたのだ
チャキ、と音を立てて、チョーサーは身に着けていたベルトをはずすと、そのままゲイルへと渡す
良く見るとそこには、バンガ族が扱うには随分細身の剣があった

剣とベルトを受け取るとゲイルは、ベルトを腰へ巻きつけ長さを調節する。中々いい位置が見つからずに苦労していたが

「セクエンス、と言う名の騎士剣の話くらいは聞いた事が有るンじゃないのか」

行き成り何の脈絡もない事を言いだしたチョーサーの声に手の動きを止めた
エメットもゲイルの後ろで、驚いたように目を見開く

その名は、騎士剣を扱う物は元よりイヴァリースの武器に精通するものなら皆知っているものだった
まさか、と思いながらゲイルはつい今しがたまで守護騎士の腰にあったベルトに引っかけてある細身の剣を見ると

「伝説の…あの、持ち主の能力に合わせて姿を変えるという騎士剣の事ですか?」

信じられない物を見るような目で、チョーサーに問いかけた

「知っているなら話は早いな。お前は十分立派な聖騎士だ。恐らくオレより上手にそいつを扱えるだろう。それで、だ」

守護騎士は否定も肯定もしなかったが、話の流れを考えるとゲイルの腰に有るこの剣が伝説の騎士剣「セクエンス」と考えない方が不自然だった
益々信じられないゲイルを余所に、チョーサーは尚も真剣にゲイルの役目を告げる

「お前はエメットが牢を開けたのを確認した後、牢の中に入って″彼″を繋ぎ止める枷の全てを破壊するンだ。その後は上手く″彼″を誘導してオレの言う位置に移動すること
枷が外れた後は危害を加えてくる可能性も十分にある。その場合は奴に攻撃をしても良いがくれぐれも気をつけろ。エメット、お前も錠を外した後はゲイルの援護をしろ。オレはその間にワープの準備を整える」

なんかもう、無茶苦茶だな、と思ったところで、ゲイルにはもう先程のように笑う事は出来なかった
他人事だと思っていたのに
どこまでも自分は唯エメットの隣に並んで、彼の支えにだけなればいいと思っていたのに
これで完全に彼は、当事者になってしまうのだ
グツコーとの関係は、唯待ちですれ違っただけのどうでもいい関係では無くなってしまうのだ
剣を引き抜きその刃を向けた時点で、向けられた相手は敵になる
無関係では無くなる、その事が、ゲイルには酷く重く感じられた

急に不安で押しつぶされそうだったことを思い出した。しかしもう、後戻りはできないのだ
すると彼は、何故か己の意思の片隅で兄の親友の肌の黒い大きな体のバンガ族を思い出した
そしてどこか意識の外でぼんやりと、もしかして、と思うのだ

この黒い壁を潜り抜けた先にいる″彼″は、此方を見てどんな反応をするのだろう
不安を少しでも紛らわせようと、笑えなくなった代わりに様々な思考を巡らせたゲイルだったが

それらは全て、外れた

「行くぞ」

これ以上ない緊張感。チョーサーの腕が、震えていた
黒い壁は、これまでの物とは手順が全く違う開け方をした
どこか遠い国の念仏の様に、長い呪文を呟きながら、壁の上から順にチョーサーの右手が触れる
触れた部分は穏やかに藍色から青、緑へと変色し、やがて黄色を経て赤く点滅を始める
上から下まで一直線等間隔に7つ、全ての点が赤くなると、やがて点と点が筋で結びつき、 亀裂の様に障壁全体へと筋が走る


徐々に細かく、複雑化しながら増えてゆく亀裂の数を見ながら、ゲイルはまだ兄の親友の事を考えていた
プリズンの門をくぐる前に彼はあのバンガ族の事を薄情な奴だと思っていた。自分の唯一無二の親友が大変な事になっているのに、どうして彼は平気で居られたのかと
しかし今は、全く違う気持ちでゲイルは、彼の顔を思い浮かべていた


壁全体に蜘蛛の巣の様に走った赤い亀裂は、ミシ、ミシ…と音を立てて中心部から白へと変わる
その間もチョーサーは口を止めない
一心不乱に呪文を呟き続けると、亀裂が更に細かくなってゆき、やがて

パリィン…!

ガラスが割れるように向こう側へ黒い破片が飛び散ったかと思うと、それらは全て一斉にすぅっと消えていった

そこから一呼吸、二呼吸、更にもう一拍あって

傍らのエメットが深く深呼吸をする

それから又一呼吸置いて、彼はゆっくりと足を踏み出した

エメットに続いてゲイルも一歩を踏み出す。チョーサーはそれから更に二拍遅れてやっと溜息とともに障壁の内側へ足を踏み入れた

真正面に大きな窓が有るせいなのか、それとも元々の部屋が広いのか
その部屋は、死刑囚一人用にしては随分と開放的で広い空間だった

部屋を入って左側の壁は台の様になっていて、二振りの形の異なるブレードと、何かの鉱物を象ったような、騎士が身に纏うよりも簡易な防具が有る
かなり手入れが行き届いてるようで、防具も剣も埃一つ被っていない。防具に至っては軽く見ただけでは表面の細かい傷に気がつかない程に良く磨かれている

剣の柄や防具の傷を見れば、粗方身に纏う者の実力が分かる

ゲイルはまだそのレベルまで達していないが、彼の父や兄がバクーバに居る時にそんな話をしながら食事をしていたのを覚えていたので少し気になってじっくりと剣を見たが、分からなかった

チョーサーがゲイルの脇をすり抜けて大きな窓の前へ進むと、その前に魔法陣を描き始める
円は全部で5つ。中心の一番円の大きさは直径にしておよそ5メートルと言ったところか。完成させるまでまだ時間が掛かるだろう。それからでも″彼″の枷を外すのは遅くないだろうか

エメットはと言うと、視界の右側の壁際全面にびっしりと鉄の棒が並んだ大きな檻の前で立ったまま動かなかった
この位置からでは良く見えないが、彼の目線の先には″彼″が居るのだろうか
その横顔は酷く無機質で、彼の青白い肌も相まってまるで精巧な蝋人形の様だった

とても静かだった
死刑囚一人が枷を嵌められて収容されるには、この空間はあまりにも神秘的過ぎた
それがぐるりと辺りを簡単に見渡したゲイルの総評だった

チョーサーが魔法陣を描き終えたらしい

「よし。こちらは準備完了だ」

複雑な模様の描かれた幾何学的な円の集合体から体を退けると、チョーサーは鉄柵の右側、魔法障壁の有った入口に近い場所へ移動したエメットと目配せをする

始めてくれ、と言う事だろう
ゲイルもエメットの隣へ並んだ
兄の左隣が、彼の指定席だった

かつては、ここにグツコーが居たのだろうか

相変わらず左手に持ったままのランプを右手に持ち替え、エメットは錠前を左手で外す
その左手が、震えていた

がちゃり、がちゃり…カチッ

随分と大袈裟な音を立てて、錠が外れる
それを確認してエメットは一歩後ろへ下がり、代わりに一歩前へ出たゲイルは

「開けるよ」

エメットの目を真っ直ぐと覗き込んで、確認を取る
するとエメットは少しだけ笑みを形作ってゲイルに返事をする

「ああ、大丈夫だ」

その笑顔が無理をして作られていることには、ゲイルは触れなかった

ギィ…と、鉄の擦れる音とともにゆっくりと牢の扉は開かれる
十分な広さになるまで扉を開け、ゲイルはセクエンスに右手を掛けながら牢の中へと入り
余りの光景に、絶句して立ち竦んでしまった

檻自体に何か魔法が施されていたのだろう。一歩中へ入ってゲイルはまずその異臭に吐き気を覚えた
死刑囚共の居た区画も酷い臭いがしていたが、あちらは生物が活動しているのを感じる異臭だった
腐った食べ物、吐瀉物、汚物、それを糧に生きる動物の匂い
それらは全て生きているものから発される物であって、酷い異臭では有るが日常的に感じる嫌な臭いが増大したものだ。微弱では有るが日常生活にも潜む物であって、路地裏で暮らしていた頃のゲイルにとっては他の人間より寧ろ強い耐性を持つものだった

しかし、この臭いは違う

そう言った生の匂いが、全くしないのだ

変わりにするのは、死の匂い
人間が腐った臭いだった


″彼″は
人の形を、していなかったのだ



















グロテスク