目の前から青い光が消えたと思ったら、今度はただ只管に、視界が白かった

いや、目を開けた一気は視界が橙色だった。白だと気付くのにはもう少し時間を有した

いつの間にか膝を突き、頭を垂れる形になっていたゲイルが最初に目を開けて見た物は、真白の大理石の地面とそこに刻まれたやけに綺麗な傷

視界がやがて白に慣れるのと、意識がはっきりしだすのはほぼ同時だった
彼は大きく頭を振って体を起こすと、沢山の白い大理石が石畳の様に敷き詰められている事に気がつくのだった
やたらと綺麗に見えた傷は、良く見ると巨大な魔法陣の一片だった

彼らは、その中央に飛ばされたらしかった

ゲイルに遅れてエメットも顔を上げる
その顔は相変わらず涼やかで、しかし彼が緊張している事がゲイルにはひしひしと伝わってきた

無理もない。この空気だ

この場所から感じる、異様なまでの強い″正″の気

今こうして立っているだけでも、得体の知れない鳥肌が全身に廻る
背筋が震えたのは、きっと気のせいでは無い

石畳の四方はそれぞれ50メートル有るか無いか。綺麗な正方形の四隅から、四本の白い柱が真っ直ぐ、青い空に伸びている
柱の白と青の対比が酷く鮮やかで気持ちが悪い
柱の高さがそれぞればらばらであることや、上部が平で無いことから、これらが昔その上に天井を支えていた事が容易に想像出来たゲイルは、どうして今はそれが無いんだと場違いな事で舌打ちをする。天井があればせめて真上の空だけはは見ずに済んだのに。何が悲しくて視界の360度全てが青いのだ
いつの間にか日は高く、日を遮る雲も無い。風も無く、朝方の湿気た空気は微塵にも感じられない乾いた空は、それでもやはりゲイルは好きになれない

すぐ隣に居る化け物を好きになれないのも、きっと同じだろう

やっと顔を上げたグツコーは、相変わらず体中に蛆を這わせ、体を不様にくねらせて喉の奥から不気味な音を鳴らし、膝を曲げ、縋るように右腕をエメットの腰に纏わり付かせる

どことなく苦しそうな"彼"は、身体が不浄で有る為にこの場の聖を苦痛に感じているのだろうか
その姿に牢中でゲイルに向けた敵意の念はなく、どこか穏やかさをも感じるのは気のせいではないだろう

しかしエメットは、″彼″を見ない

冷たさと言う名の仮面を無理に纏って佇む聖騎士は、地平線の向こうを真っ直ぐ向いたまま、暫く動いていない

それでもグツコーはエメットの気を引こうと纏わりつく

あァ…ア…

弱々しく声を上げ始めた頃、エメットはやっとグツコーを見下ろす形で向き合った
余りにもその光景が穏やかで、ゲイルは、ああ、本当にこの二人は兄弟なんだな、と思い知るのだ
相変わらずエメットの表情は涼やかだったが、それでも無理をして少しだけ口の端を持ち上げた

泣きそうな顔だと、ゲイルは思った

その青白い頬に雫が伝っても、今なら、可笑しくないと思えた

なぜならば、此処はプリズンだからだ
山岳都市の魔力が一挙に集中するこの牢獄は、常識など通じない場所なのだ

だから、決してもう子供では無い兄が泣いても、何も可笑しくないのだ


それでもエメットは泣かなかった

「ゲイル」

目線をグツコーから離さないままで、エメットは弟の名を呼んだ
ゲイルも、目を合わせる事が出来なかった
今エメットの顔を覗き込んでしまったら、代わりに自分が泣いてしまいそうな予感がしたのだ

彼は、優しい少年だった

人が言うほど穏やかでなくとも、気が長く無くとも、彼は十分、優しい少年だった

ゲイルの返事が無い事に、エメットはフッと吐息だけの笑みを零す
それが幼い己の気持ちを見透かした上でのものだという事に、ゲイルは気付いていた
実の兄弟で無くとも、過ごした月日が年齢とイコールで無くとも
それでも彼らは本当の兄弟なのだ

少しの間が有って、エメットは再び口を開く

「ありがとうな」

静かに息を吸う音が、ゲイルの耳に届く。相変わらず双方共に顔を合わせないままだった
「ここからは、俺の仕事だから」

最後の最後で逃げ出さないように、もう少しだけ、見ていてくれ

ぽたり。と何かが白い大理石に落ちた

ゲイルもエメットも、その正体が何かを知っていて、敢えて見なかった振りをした

それが又、ゲイルには痛くて、ぽたりぽたりと、泪をとした

そうだ。子供の様に泣くのは、自分だけで十分なのだ
これで兄さんが″彼″との別れを決心出来るなら、何も痛くはないのだ

ああ、何故今日に限って雨が降らないのだろう
少しはこちらの気を汲んで、空が号泣すればいいのに
そうすれば兄に余計な心配を掛けずに済むのに、どうしてこう言う時に限って空は泣かないんだ
己の気まぐれで表情を変え、地上に居るものに迷惑を掛ける空は、ゲイルにとっては聞き分けの悪い子供の様に思えて、大嫌いだった

それがどこか幼いころの自分と重なるので、彼は嫌いだと言いながらもずっと空から目を離せないのだ


ゥ…ウ…

傍らから声が聞こえて、そちらを見やると赤紫の綺麗な双眸が、ゲイルの目を覗き込んでいた
その目は、もう、獣の目をしていなかった

今からその身に起こることを、この人は理解しているのだろうか
理解した上で穏やかで居られるのなら、この空はこの人の心の生き写しなのではないかとさえゲイルには思えて、その優しさがゲイルには又憎かった
しかしそれが純粋な憎悪から来るものではない事を、彼は頭の片隅で理解していた


グツコーは、ゲイルと数秒目を真っ直ぐに合わせた後、再び穏やかにエメットを呼んだ

エメットは、ゲイルに魔法陣の外へ出るように促すと、ずっと持ったままだったグツコーの左腕を″彼″へと返した
例えるならそれは、幼子に玩具を与えるように、柔らかい顔と仕草で、渡した

そして

「……始める」

白い大理石の石畳に刻まれた巨大な魔法陣が黒く輝くのと、エメットの手が白く発光するのは、同時だった

魔法陣の一番外側の縁から黒い光が飛び出し、光の障壁を形成する
直径にしておよそ20メートルの複雑な陣の様々な文様が、エメットの体に流れ込んでゆく
目を閉じ、手を広げ両膝を突き、まるで何かに祈るように早口で何かを唱えているのが、魔法陣の外からでも確認できる
風が吹き荒れ、少しずつ少しずつ陣の外から″正″の空気が中へ中へと流れ込んで行くのが肌で感じられて、ゲイルは″負″の気に押され胸が苦しくなってきた

元来正と負のバランスは、どちらかに傾くこと無く釣り合った天秤の様に満ちている
それはこの世に息衝く全てのものに等しく、生物はもちろん、鉱物や大地、海などの自然物もある一定のバランスを保って存在している
其々の誤差は在るものの、極端な気の流れは良い影響を及ぼさない点で絶対的な共通点と言えようか
例えどんなに正の気が強くとも、そこには必ず負の気も存在するのだ

わずかな正の気だけを残し、魔法陣の中に連れていかれた生の気は、陣の中で舞を舞うように旋回する
あまりにも強い気の流れだったので、視界にとらえることは容易いことだった
グツコーが、苦しそうにもがいている
不浄の″彼″にこの強い正の気は、先程の牢でゲイルが蛆の中に突き飛ばされたのと同じくらい不快なのだろうか。激しく叫び、体をくねらせている

「聖処刑は、負担が大きい」

ゲイルはチョーサーの言っていた意味が漸く理解出来た。そして何故彼に処刑をさせようとしなかったのかも、理解出来た

正の気を大量に取り込み過ぎると、人は、過剰な正の気を放出しようと負の気を多く求める

最悪、エメットが、この処刑を行う事で人格を失う危険性が伴うのだ

親友の長男を、次男が処刑する、と言うだけでも耐えられないだろうに、その次男が今度は人として生きれなくなるのだ。誰でも止めたくなるだろう

旋回しながら正の気は、魔法陣の模様と同じく少しずつ少しずつエメットの体に入り込む

やがて彼は陣内を旋回していた膨大な量の正の気を残らず体内へと取り込むと、口を動かすのをやめ、ゆっくりとした動作で両掌を合わせる
すると掌が白く眩い光を抱え、彼は静かに目を開けた

「聖処刑」

ゲイルが小さく呟くのと、エメットがグツコーの腹の中心にこの空気中ほぼ全ての正の気を集めた掌をずぶりと沈めるのは同時だった

途端に、グツコーの体がドロドロと溶け始める

ああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!

耳を劈く様な悲鳴に、ゲイルは耳をぎゅっと塞ぐ
塞げど塞げど、その声は小さくならない

「ぐぅっ…っ…!!」

背中を逸らせ、エメットの手から逃げようともがくグツコーに、エメットは背を丸め膝を支点に手を伸ばし体を乗り出す
その顔は、もうこの距離からでは見えない

溶けた臓器や肉片が、びちゃびちゃと体液が滴り色鮮やかな水溜りを形作る
それから遅れて骨が溶けだし、水溜りと混じって白い灰を生み出す
その度に全身から赤々とした血が勢い良く吹き出し、エメットの白い衣服と顔を汚した

それでも尚グツコーは息を継ぐこと無く叫び続ける
体の半分が失われても、その声は全く変わらない
下半身の無くなったグツコーは、体が不安定になり仰向けに倒れる
そこから徐々に徐々に頭の方へと向かって、エメットが手を進める
一際勢い良く大量の血を吐きだした心臓が握り潰され無くなっても、グツコーはまだ動き続けていた
しかし声はやがて、声帯が無くなるにつれて小さくなってゆく
骨を残し首から上だけになったグツコーの両頬にエメットは、両手を添えて最後の力を注ごうと身を乗り出し

しかし

「!」

その動きは、ぴくりと止まった

グツコーが、もう既に声の出ない口から何かを伝えようと必死に口を動かしているようだった
その顔が、少し笑っているようにゲイルには見えた

エメットに良く似た、穏やかな笑い方だった

呆然とするエメットの目の前で、グツコーの中に流れ込んでいた正の気が彼の体を無へと帰す
少しずつ、ゆっくりと燃え広がる火の様に、彼の肉を浄化し、水溜りを作る

やがて不浄だった彼の体は、全て聖なる灰に変わり、唯一彼が人間の時のまま有していた赤紫の二つの目は灰の中に佇んでいた

役目を終えた魔法陣が光を失うと、陣の内と外に分かれていた正と負の気が風を巻き起こし混じり合う
その風に乗って、灰が空高くに舞い、やがて霧散した

ゲイルはと言うと、急に己の中に入ってきた正の気に耐えられなくなり、それまでずっと押さえてきた吐き気がこみ上げて来たかと思うと我慢する間もないままに嘔吐し、そのまま意識を失った


だから彼は、グツコーの目玉がその後どうなったのかを、知る由も無かった

















灰秋の月5日。良く晴れた、残暑の日だった




グロテスク