それからいくらか進まないうちに、足元が平らになった
今までずっと下り坂だったにも関わらずにと不思議に思いながら一歩を踏み出すと、突如階段が現れた
同時に、これまでずっと通路の脇にあった照明器具がなくなった。役目を果たしているものが地下に潜るにつれ少なくなり、変わりに埃を被っているものが多くなって来ている事は確かだった
しかしそれでも、あの気味の悪い死刑囚の区画ですら常に等間隔に存在していたそれらが、階段が現れると同時に無くなった

急に、だ

急にゲイルは寒気を感じた
段差に気付かず足を踏み出し、バランスを崩し掛けて少しぞっとしたのは確かだ
だがそれだけでは説明できない寒気を、ゲイルは感じていた

それらを全て気のせいにして壁に手を付き更に一歩を踏み出すと、風が段差のあまりない階段の下の方から吹いてきた
冷たい風だった
先程までずっと蒸し暑いと思っていたのに
じんわりと滲んでいた汗が、冷たい風にさらわれるようだった
この時期としては、少しばかり冷た過ぎる風に
しかし今日散々おっかない思いをした後だったので、奇妙に思いこそしてもゲイルは大して驚かなかった
漸く彼は、プリズンとはこういう場所なのだと理解し始めていた
一々驚いて居ては馬鹿みたいではないか。と数刻前の自分の事を棚に上げ、前の二人に続いて階段を下りる。たん、たん、とリズミカルな三重奏は、しかししだいにあまり響かなくなった

風が有ると言う事は、どこかに扉か、窓か、それに準ずる穴が有ると言う事だろう
故に反響するはずの音が、外へ逃げてしまうのだ。恐らく人が通れるほどの大きさを有するその穴がどこに有るのかは現時点では分からないが、しかしそう考えなければこの狭い通路で音が響かない理由が説明できない
ここは最も谷底のはずなのに。否、谷底だからこそ穴が有るのだろうか
決して逃げることのできない深い渓を、誰が好き好んで這い上がろうとするものか
それでも余程野心の強いものならば、出て行こうとするのだろうか
脱出願望がないからこそここに収容されるのだろうか
唯の死刑囚なら、先程の囚人達のように異臭漂う最も暗く危険な区画に収容されるということか

では、一人隔離されて収容される死刑囚、グツコーとは如何なる人物なのだろう

人伝に聞いた情報は知りえても、結局ゲイルにとってグツコーはどこまでも他人だった。人物像に興味は持てても、彼自身には興味を抱けない。人間的な知識欲から来る好奇心から彼を知りたいと思っても、心から親しくなろうとは、到底ゲイルには考えられなかった。余りにも彼はグツコーという青年のことを知らなさすぎた

いや、今更知ったところでゲイルにとってはどうでも良い事なのだ
彼にとっては今日これから会う"彼"が初対面で、今世の分かれなのだから
この先一生もう顔を合わす事がないのだ。唯街ですれ違う程度の人間。そこに大した興味を持てないのは、誰しも同じなのではないか
一々その時々唯一瞬すれ違っただけの人間の顔をはっきりと覚えていられるほど、人の記憶力は宜しくない。必要のないデータは忘れる、つくづく都合の良い生き物なのだ。人と言うのは

誰かがその昔言っていた。恐らく路地裏で生活していた頃にどこかの魔法学校の教師が生徒に言い聞かせていたセリフだろう

人と言うのは人生で出会うべき人間に必ず会って居るのだ。それも一瞬早からず、一瞬遅からず、それが最良ともいえるタイミングでな

諭すように周囲に説く優しい声は、ちらりと見た横顔に深い皺が刻まれていた。博識そうな、温かい雰囲気を持つン・モウ族だった。ああそうだ。あの日は確か日差しの強い蒸し暑い日だった。遠くの方に大きな白い雷雲が君臨していて、それが夏の青い空と相俟ってとても気持ちの悪い空だった

馬鹿げている。路地の間から聞き耳を立てていたゲイルは、如何にもそれが正しいことのように周囲の諭す彼ではなく、彼の言葉をそのまま鵜呑みにして目を輝かせる己と同年代ぐらいの子供に舌打ちをした
周囲の大人の言う事を全て素直に聴けるほど、彼は純粋では無かったのだ
殊にその日は日差しの強いせいで色濃い影が自分の足元に出来る、大嫌いな空の中でも特に嫌いな空模様だった為に、幼い彼は最高潮に機嫌が悪かったのだ

ああ馬鹿げている。若しあの博識そうな先生が言うとおり、自分が今まで見てきた人間の全てが己の人生の最高のタイミングで目の前に現れたとしているのならば、俺の人生はなんなんだ。物心がついた時には一人だった。周囲の人間は皆自分を汚いものを見るような目で見た。整備された綺麗な機工都市の街並みで、めったに見掛けない汚れた顔の痩せた子供に誰が手を差し伸べようか
すれ違う人間は皆敵だ。己の醜い姿を映す影も嫌いだ。だからよく晴れた空も大嫌いだ
日の下でのうのうと暮らす裕福な子供も、大人も、皆嫌いだった
一生自分はこうして生きて行くのだ。誰にも気づかれず、薄汚い格好で

唯一海だけが、暗い海だけが己の全てを受け入れてくれていたのだ

あの日までは


びゅぉう。と強い風が頬を掠めたことで、ゲイルは回想から現実へと帰って来た
気がつくと地面はまた平らになり、左手の方向に大きな窓が開いているのが確認できる。そのせいで日差しが入り込み、ここはプリズンで一番日当たりがいいのではないかとさえ思えた
少し立ち止まり窓から外をのぞくと、まず真っ先に切り立った崖が見え、その向こう、正面遠くの方にルテチア峠が見えた。当たり前だがあの日のように雪は降っていない。今はまだ秋が始まったばかりなのだ
いつの間にか白かった空は、濃い青色に染まっていた。奇妙なくらい良く晴れたこれ又気持ちの悪い空に、ゲイルは嫌悪感を隠しきれずに顔を歪めた

空が嫌いだと言いながら、彼はその日その日の空の様子を良く覚えていた
それは止せば良いのにこんな風に景色と一緒に上空を眺め、空を睨みつけるからだという事に本人は気が付いていない

「置いて行くぞ」

いつの間にか随分と前へ進んだチョーサーが彼を振り返り手招きしている
エメットはもうこちらすら振り返らず、更に前を颯爽と歩いているようだ

「今行きます」

大きめに声を出し返事をすると、もう一度空を睨みつけゲイルは走った
足音は全て、風が窓の外へと連れて行ってしまったようで、全く響かなかった
唯じゃりじゃりと、風が運んできた砂の音が彼のブーツの底から鳴る
その音が昔路地を走り回っていた頃の記憶を妙に鮮明に映し出したので、恐らくそれがきっかけで思い出に耽っていたのだろう
浸るほどの思い出を持つほど長く生きてないはずなんだけどなぁ、と、場違いにゲイルは苦笑すると、自分にしか聞こえていないと思っていたその微かな笑い声は、しかし聴覚の優れているバンガ族のチョーサーには良く聞こえたようで、彼は随分と広くなった通路でゲイルと肩を並べて歩きながら少し眉をひそめ、少年に問うた

「何故笑う?」
「いえ、少し思い出していただけですよ」

敢えてはぐらかすとチョーサーは益々気になるようで、首をかしげてゲイルへ更に追及する

「何を思い出していた?」

するとゲイルはまた少し苦笑いを浮かべてこう言うのだった

「今は関係のない事ですよ。又機会があったらお話します」

もう二度と自分はこの男とは顔を合わせないだろうという確信の籠った言い草で話題を切り上げて、ゲイルはエメットの横へ並んだ

しかし彼はゲイルが横に居ようといまいと関係のない様子で、真っ直ぐと前を睨んだまま一定の速度で歩き続けていた
傷の手当てが終わってからずっと戦闘を歩いていた彼の利き手、左手に掲げられたランプはとっくに油をすべて使い果たし、蝋燭の灯は消えていた

それでも彼はそのままランプを前に翳して進んでいる
考えにくい事だが、どうやらエメットはランプの灯が消えたことすら理解していないようだった

エメットにとっては、これから彼がする事がここに居る意味であり、それ以外の事にはもう目を向けている余裕もないのだろうか

そこでまた妙な、焦りに似た孤独感の様な、怒りの様なものを覚えたゲイルは、唯己の幼さを悔いてぎゅっと拳を握りしめることしかできずに黙って兄の横を歩いた

分かっているさ

誰に言う訳でもなく小さく口を動かして、一層強く拳を握りしめる

分かっている。そう、分かりすぎている
人を敬愛してやまないこの心は、例え他人に何を言われても変わらないのだ
自分がエメットをこの上なく尊敬し、信じ、隣を歩くことに喜びを感じるのと同じように
エメットも又、グツコーを敬愛しているのだろう
これまでの彼の言動から彼がグツコーと言う人物についてどう思ってるかを想像する事は、ゲイルには余りに容易かった

相変わらずグツコーについては、ゲイルは興味を持てない
しかしエメットがこれからグツコーを始末するという事は
ゲイルにとっては、エメットを殺せと言われるようなものだろう
何よりも敬愛する兄の命をこの手で断てと言われたら、自分は、エメットの様になれるだろうか

答えは、出なかった