左踝付近に刺さったスプーンを、エメットは静かに引き抜く
幸い健は傷つけて居なかったものの、態々殺傷能力を高めるためにジグザグに研がれたスプーンの切れ味は然程高くなく、それだけ余計に痛々しい傷口が出来ていた
傷の深さを確認するとチョーサーは、バンガ族が唯一扱える回復魔法、ケアルラの詠唱を開始する
ゲイルの右肘はと言うと、既に応急処置としてチョーサーの持っていた塗り薬を渡されて終わりだった。唯の擦り傷、放っておいても跡は残らない、ただ少し消毒が必要なだけだ
しかしエメットの方は違う。二本のスプーンのうち一本に…一体何処で手に入れたのかは分からないが、神経を麻痺させる毒が塗ってあったのだ
幸いゲイルが毒消しを持っていたので、傷口にその葉を乗せ、応急処置用の包帯を巻き、ケアルラを掛ければ、傷は残らないだろう

「何のつもりだ」

徐々に癒えて行く傷口に視線を向けながら、エメットは嫌悪を露わに言った

「受付から処刑人の居る場所へはテレポ一つで飛べる筈だ。それをどうして一々時間を掛けて歩いて行く必要が有るんだ。こんな部屋が有るなんて今の今まで知らなかったぞ」

傷が完全に塞がると、今度は守護騎士を睨みつけながら聖騎士は問うた
つられてゲイルも疑問の目を皮膚の赤いバンガ族へと向ける。そうだ。彼は此処を通過する際に、此処が″彼″の元へ行く唯一の道だと言った筈だ
しかしエメットの話では、何度も″彼″と面会をしている彼ですら、今の区画は通過した事がないとのことだ。何故守護騎士は、安全な道を選ばなかったのだろう。結果的に失敗に終わったものの、危険な囚人たちからエメットとゲイルを隠しまでして、どうして此処を通過する道を選んだのだろう

まるで、わざと遠回りをしているかのような…

ああ、もしかして

「怖いんですか?その…兄さんが、グツコーさんを処刑するのが」

気付いた時には、ゲイルは口を開けていた
仕方がない。彼は我慢が出来ない子供なのだから
思ったことは直ぐに口に出す、それが彼の美点でも有り、欠点でもある

この場合は、欠点として出てしまった
ゲイルの言葉を聞いて、ぴくりと眉を上げたチョーサーが

「もうちょっと言葉遣いに気をつけな」

鋭い台詞を、ゲイルへと向けた
しかしゲイルの言葉は、止まらなかった

「どうしてあなたが怖がるんですか。あなたは俺の養父の親友かもしれない。けれどこれは兄さんの問題であなたが関わる問題では無いはずです。だってあなたは直接関係がないから
俺と同じで、あなたが何を言ったところでで兄さんの意思は変わらない。だからわざと遠回りをして兄さんの邪魔をしたんじゃないですか。だからここに来るまでも中々兄さんと目を合わせなかったんじゃないんですか」
「……止せ、ゲイル」

言いたい事をまだ言い切らないうちに、エメットが制止を掛けた。普段あまり口の多くない彼が言葉で人を制する時は、強い制止を掛ける時だった。特に今のように顔を下に向けたまま声を出す時は、一番強い合図なのだ
それを一番良く分かっているのは、他でも無いゲイルだった

「……ごめんなさい」

小さく謝罪の言葉をチョーサーへと向けて、それからゲイルは静かになった

今日何度目か分からない静寂は、しかし余り長くなかった

「怖いわけでは、無いさ」

嗄れ声を震わせながら、チョーサーが喋り出した

「唯決心が付かなかっただけだ」
「俺が兄さんを処刑するのが、か?」

微かに首をかしげながら紡がれたエメットの言葉に、チョーサーはゆるゆると首を振る

「或いはそうかもしれン。だが、恐らく違うな。こうなる事は分かっていた」

はっきりしない答えだったが、エメットは満足したようだった。そうか、と呟いた彼は負傷した左足首を軽く動かし、傷口が完全に癒えたことを確認すると立ち上がった
ゲイルはと言うと、チョーサーの物言いに納得した訳ではないものの、最初に疑問を投げかけたエメットが満足したのを見て、これ以上自分が何かを言うのは子供染みていると判断した。先に自分でも口に出した通りこれはエメットとグツコーの問題であって、己が何を喚こうと事態は変わらないのだ。それが分からないならまだしも、分かった上で更に口を挟もうとするのはどうかしていると彼は考えた。だから今も何も喋らなかった

ふぅ、と傍らから溜息が聞こえた

「俺が一人で来たのなら、あんたは躊躇いなく俺をいつものように魔法一つで兄さんの元へ飛ばしたんじゃないのか?」
「さあな。今となってはどうでも良いことだろう?」

溜息に続いて発せられたエメットの科白に、兄弟から数歩先に進んだところで、背中をこちらに向けたまま守護騎士は肩をすくめた
もう良いだろう、進むぞ。と言わんばかりに一歩踏み出し掛けたのその背中に、すると聖騎士は、不器用なトカゲだ、と皮肉を言い放つ
トカゲと侮辱されて耐えられないのはバンガの性なのだろう。不機嫌に此方を向いたチョーサーが何かを言おうと口を開いたのを

「心配しなくても、ゲイルはあんたの思っているほど弱くないさ」

でなかったらここに連れてこない。そう言って遮り、エメットは行き成りゲイルの左肩を掴んで自分の方へ引き寄せた
そのまま急に話題が自分の事になり驚くゲイルの左肩を軽く二、三度叩くと

「お前が居なかったら俺は今頃逃げ出していたからな」

そう言って、エメットは何故か穏やかに笑っていた

その様子を唯チョーサーは、じっと見詰めたまま動かない
恐らく彼が遠回りをした理由の一つはゲイルなのだろう。何故彼がエメットと並んで今ここに居るのか、彼自身も分かっていないのだから、チョーサーが不審がるのもゲイルには頷けた
それでもチョーサーはまだ完全にゲイルを認めたわけではなさそうだった。現に今此方を見るチョーサーの目が、とても鋭い

それが何故なのかは、直ぐに分かった

「あんたの言いたいことは分かる」

此方をずっと見たままの守護騎士に、目線を寄越さないままエメットは語りかけた
否、語りかけるように、言葉を投げた
返事を期待していない。唯己の言いたい事を相手に伝える為だけに、口を動かしている
そんな風に、ゲイルは捉えた

「聖処刑は確かに負担が大きい。あんたが心配するのも分かる。それでも俺は、一人で片を付けたい」

ここで初めてエメットは、チョーサーを真っ直ぐと見据えた
余りの目力の強さに、チョーサーが一瞬怯んだのがゲイルにも分かった

「それでも、一人でここまで来るのは正直、俺には難しかった。だから、弟を連れて来た
こいつがプリズンに入るまでに少しでも逃げ出そうとすれば、俺はこいつを置いてそのまま一人で ここまで来るつもりだったが…恐らく途中で俺も逃げ出していた
もしプリズンの門を潜る事は出来ても、障壁の番人であるあんたの凄味に負けて、結局のこのこと帰って書面で兄さんの処刑をあんたに依頼していただろう。そのくらい容易に想像つく。だが」

徐々に饒舌になる口の動きに合わせて、エメットは恐らく無意識にゲイルの肩に乗せた左手に力を込めて行った。左肩に少しずつ痛みが走ったが、ゲイルはもうそれすら気にならないほどにエメットの顔を凝視し、言葉を待っていた

「ゲイルは、逃げなかった」

ぎゅっと、一層強くゲイルの左肩が握られた
白い簡単なマント越し、服越しに、骨が悲鳴を上げたが、ゲイルは全く気にしなかった
自分の方こそ兄の存在がなければこんな所まで来ていない。兄の存在に助けられてばかり居たのは、他でもない自分の方なのだ
その兄が自分の存在を支えにしていた。それは、エメットを敬愛するゲイルにとってこれ以上ない幸せだった

「俺は逃げない。決心は変わらない。誰が何と言おうと、俺はこの手で兄さんを始末する」

右手を左胸に持って行きながら大きく一歩右足を踏み出し、決意宣言を聖騎士は放った
誰に言う訳でもない、己の心に向けて放たれた誓いにも似た言葉は、それでもチョーサーの心を動かすには十分だった

「遠回りをさせた事は、謝る…それにしても、お前は本当に…親父さんそっくりだ」

油が残り少ない、この通路を抜ければ″彼″の居る場所だ。急ぐぞ

早口に言いながら踵を返すチョーサーの目元が濡れていた事を
ゲイルは、気付かない振りをした