穢れ無き、誉の戦士が居た


汚れ無き赤紫の瞳は、もうここには居ない


……嗚呼









気色の悪いぐらいに白い空だとゲイルは思った
昨日は昨日で暗い藍色の雲と赤茶けた山の斜面が頭上を埋め尽くしていて、それも又気持ち悪いと思ったのだった
雲の切れ間から日の光が見えたときなど吐き気がしたほどだ

要するに彼は空と言うものが嫌いだった

一つ大きな伸びをして、残暑特有の湿気た空気を吸い込む
それから顔を洗いに行こうと仮住居にしている借宅の裏側へ回る
昨日は星一つ見えない、暗闇の心地良い夜だった
あまりにもその空気感が心地良すぎて夜更かしをしてしまったのだ
その所為だろうか。覗き込んだ腑抜け面には微かに黒い隈が出来ていた
水面に映る面の、頬の辺りから水を掬い上げて顔を洗う。滴り落ちた滴がふにゃりと曲がった鉛色の目に直撃するのも構わなかった

井戸の水というのは不思議なもので暑いときには冷たい水を、寒いときには温かい水を提供してくれる

元々港街育ちの少年はそれが最初全く自然の物だと理解できずに居た
バクーバの周囲に水は有り余るほどにある。しかしその全てが海水で、特殊な魔法術を習得した魔道士がそれを真水に変換させることによって人々は生活水を得るのである。世界中何処でもそれは絶対的な常識だと思い込んでいたのだ

しかし此処に来てそれが間違いだったと知った
名の通り山岳都市である此処は、山頂の湖から脈々と流れてくる雨水を溜めた井戸水を生活水にしていた。魔法術や機工術の関与の無い全く自然の水は独特の色をしているようにも見えた

水だけではない。バクーバでは当たり前の生活に密着している有りとあらゆる術が此処では異端だった

それは魔法を扱うことが不得手な上、手先が不器用なバンガ族の多く暮らすこの街だからかも知れなかったし、或いはこの世界の秩序の中心に街の魔法機関が全て集中している故かも知れなかった。真相はどうであれ、要するにスプロムとはそういう場所なのだ
山岳地を無理に切り開いて作り上げられたこの地はお世辞にも住み良いとは言えず、いつも視界には赤茶けた地面と壁が有り、空気を吸えば土埃と粘土質の泥の味がした。洗濯物をすれば案の定水が足元と同じ色に染まり、二度洗濯をしようとすると水を粗末にするなと隣人に叱られたのはあまり良い思い出ではない

それでも彼がこの地で生活するのは

「相変わらず早いな」

この存在が居るからに他ならなかった

「お早う兄さん」

これでもいつもより遅くに目が覚めたんだよ
気配など微塵にも感じさせずに背後に居たその青年に、それが然も当たり前のようにゲイルは笑み掛ける
どこが前髪か分からないほどに漆黒の長い髪を無造作に結い上げた青年は、此処数年で別人のようにやつれた。琥珀色の眠気眼の下には色濃い隈が出来、頬は痩せこけ青白い肌は遠くからでも良く目立つ

つい半年程前に彼を追ってスプロムに来たゲイルは初め、これが自分の兄だと信じられずに居た
二年前、バクーバで暮らしていた時の彼は細身では有ったもののしなやかな筋肉を身に着けた戦士であり、骨が浮き出る程に痩せてはいなかった。少年の知る聖騎士エメットは目の冴える様な冷たい顔立ちと鋭い琥珀色の瞳が何よりも特徴的な人物だったのだ

「調子はどう?頭とか、痛くないかい?」

先程の自分と同じように井戸から水を汲み顔を洗う青年にそれとなくゲイルは聞く。問題ない。と返ってくる声はいつも通りで、そう。良かった。と答える少年の安堵したような顔もいつも通りだ
此処へ移り住んでから兄の体調を気遣うのが、ゲイルの日課になっていた。再会した当時と比べてエメットの顔色は少しは良くなったものの、今なお常人より青白い。覚束無い足取りは、極度の睡眠不足と栄養失調から来る免疫の低下を物語っているようにゲイルには見えた。自分が傍で支えてやらねば今にも倒れてしまいそうだと彼はいつも思っていた

あの日

『スプロムへ行く』

騎士の達筆な字で綴られた一言だけの置き手紙を見たとき、アーディンは珍しく渋い顔をしていた。豪快を絵に描いたような快活な性格の父に余りにも似つかわしくない表情だったので、ゲイルはよく覚えていた
その日も今日と同じような、気持ちの悪い空の色だった
白い朝日が照らす家の中心に位置するテーブルの前に立ち、恐らくそこに有ったのであろう一切れの紙切れを文字通り目と鼻の先程の距離まで持って行き、顎髭を撫でながら凝視する父の背中は、何故だろう、落胆的にも悲観的にも見えた
ゲイルが声をかけようか掛けまいか迷っていると、やがてアーディンは肩を竦めつつ大きな溜息を吐き、手紙から目を離し、白い光の差す窓のそのまた遠く方の方眺め、無駄だ。と呟いた
一体何が無駄なのか。気になったが、逆光になった彫の深い横顔に深い影が差しているのを見て、少年は言葉に詰まった。父には見えていて自分には見えない文字がそこにあるような錯覚を覚えた
やがてアーディンは決心したようにぐしゃりと手紙を握りつぶし塵箱へ捨てると、そのまま無言で息子と擦れ違い部屋を出て行ってしまった


「ゲイル」

自分を呼ぶ声にはっとして顔を上げると、目の前に少し身を屈めた兄の白い顔があった
ここ2年でゲイルの身長は15センチ程伸びたが、それでも未だエメットの方がほんの少し上背があった

「どうしたの?真剣な顔して」

いつの間にか目の前に居たエメットに少し驚いたが、忍びの職にも就いた事のある彼が気配を消さずに行動することの方が難しい事も知っていた
それよりも今は、その琥珀色の奥二重が今まで見てきたどの表情よりも冷たく背筋を刺激する威圧感をたたえていることの方が気になって、ゲイルは態と軽い調子で相反するような笑みを浮かべて問いかけた「なんだい?」
するとエメットは、暫くじっとゲイルの目を見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた

「プリズンへ、行くぞ」
「プリズン…?」

エメットの口から出た四文字の名が差す機関を、この世界で知らないものは居ない
この街の中心で有り、街の全ての魔法機関が集中する場所で有り、同時に世界の秩序の中心でもある「プリズン」は、平たく言えば「牢獄」だ
種族を越え、身分を越え、国境を越えた、無法者を送りこむ場所
深い渓に面する山その物が囚人を投獄する牢屋であり、谷底に行けば行くほど重罪人がその身を送還される

この世界は、法に厳しい

かつてジャッジはクラン単位ではなく、生まれながらにして全ての人間が平等にその加護を受けていた時代があった。文献によると、当時は各エンゲージごとに設けられるロウに違反するだけでプリズンの世話になって居たらしい
その時代、プリズンは一番力のある国の王宮付きジャッジマスターが最高指導者であったそうだ
故に王宮にを齎すと見なされた者は悉くジャッジが取り締まり、次々と処刑された。このシステムにより王宮は比較的安泰で、住人の生活も不自由は少なかったとの事だ
悪く言えば、プリズンは王宮の狗だった
プリズンを支配する国は、自国にとって都合の悪い他国の主要者をも、いとも簡単に裁ける
実際にそうやって次々と王族豪族貴族が処刑され、滅亡した国も過去に有るという話は有名だ

けれどもそれらは全て昔の話。そんな時代が有って、そして革命を起こした勇者が居て
だからこそ今の形が有るのだ

この「建物」の近くに行くと、心成しか肌寒い空気を感じる

豪華な装飾が施された門が有るわけではない。屈強な兵士がその両脇に居る訳でもない。増してや門など有りもしない
ただ視界に存在するのはほんの数十メートル先にある小さな無機質で四角形の灰色のそれ。その奥には深い谷底がぽっかりと口を開けている。知らない者が見たらこれがかの"有名な"プリズンだとは気付かないだろう。それほどに質素で殺風景なこの光景
ただそれだけの事なのに、ゲイルは己の震えを押さえられないのだ

隣に居るエメットの存在が無ければ、自分は今頃全速力で来た道を戻っているに違いない
そもそもこんな場所になんて住んでいない。洗濯を二度しただけで隣人に文句を言われる暮らしだって、育った街よりもずっと大嫌いな空に近い地面だって、常に粘土質で雨が降ると足が簡単に滑りそうになる地盤だって本当にもう沢山だ
逆に言えば自分にとっての兄はそれだけ大きな存在なのだ。兄が居るから自分は逃げ出さないでここに居る。例え隣人に良い顔をされなくても、慣れない土地で半年も暮らしていける。見た目ほど気が長くも、人が言うほど穏やかでもない自分が文句を言いながらもこの地で生活していけるのは、他の誰よりも敬愛する兄が居たからこそなのだ

ああなんて俺は子供なんだろう。ゲイルはそう思わずには居られなかった
思うのと同時にぎゅっと両手を握りしめて唇を噛みしめた。そうしている間にもエメットは灰色の建物を睨んだまま動かない。真剣な目つきで建物の入り口と思しき穴を睨み続けている
その横顔が何時かの父親と重なった。自分には見えなくて彼にだけ見えている何かがそこにある様な、自分だけが置いてけぼりにされているような、そんな感覚をまた思い出した

今度こそ何か見えるかもしれない
震える体で必死に兄と同じ方向に首を向け、そして思いきり睨みつけた。唇も先程より強く噛みしめ、手も爪が食い込むほどに握りしめ、掌から唇から血が滲むのも構わないと思った
そう。敬愛してやまない兄と同じものが見れるのなら自分がどうなっても構わなかった

しかし自分の目に飛び込んできたものは、やはりというべきか。先程と何ら変わりない灰色の小汚い建物
視界が歪んでいるのは恐らく瞬きすら拒否した己の、生理的なものから来る涙によるものだろう
何ら変わりない。何の変哲もない。何もおかしくない。日常的ではないが、超次元的でもない
己の目は結局その目の前の光景を忠実に脳に伝えることしかできないのだ


「震えているのか」

依然プリズンから目を離さないままのエメットが突然口を開いた

怖い訳じゃない。問いに答えようとしてゲイルは、それが自分に問いかけられたものではない事に気付いた
エメットの体も又、自分と同じように震えていたのだ
言葉に続いて息の漏れたような頼りない笑い声が、頭の上から聞こえた
やがて彼はずっと睨みつけていた四角形から目を離すと、やっとゲイルに目を合わせ呟いた

「我ながら、情けなさ過ぎるな」

自嘲、憐れみ、悲しみ、哀しみ、諦め、怒り、憤り、安堵…… さまざまな感情を感じさせる眼。ここ半年で一番表情が豊かな目だとゲイルは思った
喜怒哀楽では表現できない、微妙な感情ばかりが集まった瞳
しかしそこに喜びの色は少しも混じっていなかった
負の感情の中に少しだけ諦めに似た正の感情が混じっているような
その目と対極的に半月を描いた口元が、ああそうだこの人はこんな風に笑えたのだったと言う事を少年に思い出させた
そうだ。この人だって人間なんだ


「兄さんは」

兄の言葉に首を振りながら、一呼吸置いてゲイルは言った

「情けなくなんかないさ」

みてよ。俺の手だってこんなに震えてる
言葉とともに青年の手をとった。関節の形が良く分かる細い指はとても器用そうで、ひやりと冷たかった
手を見れば、その人となりが分かると誰かが言っていた
エメットの指は細いながらも皮膚が固く、戦う戦士の形をしていて
その手の温度は、本当は優しい彼の心のあたたかさを感じさせた
手が冷たいほど心が温かいのだから、誰よりも冷たい手の彼はきっと誰よりも優しいに違いなかった

ゲイルは優しい戦士の貌をした両の手を更に固く己の両手で握った

「怖いのは俺も一緒だよ。独りじゃない、だから情けなくなんかないだろう?」

一瞬驚いた顔をしていたエメットは
ゲイルの顔を見て、先程より一層柔らかく微笑んだ


そして次の瞬間何かを決心したかのように大きく頷くと
やっとプリズンへ向かってゆっくりと歩き出した「そうだな」

「今更どうにも出来ないんだ…!」

言葉とともにいきなり大股で歩き出したエメットのその横顔が涙に濡れているような気がして、ゲイルは驚き立ちすくんだ
結果的にそれは嫌に鮮やかだった幻だったのだが。彼は驚いて一呼吸かニ呼吸送れて遅れると、やっと風にはためく黒い背中と白いターバンを慌てて追いかけた