お盆も過ぎたある暑い夏の昼下がり。事件は起こった
伊月家の風呂が壊れたのだ
*
確かに。と伊月家の長男、伊月俊はあれから何度かわからないため息をつく。長屋の一戸建て日本家屋で築何十年という伊月家は、それに比例するかのように水回りも朽ちてはいた。だがしかし、年々地球温暖化で最高気温が高くなっている昨今、それもまさか一年を通して一番暑さの厳しいこの八月の三週目に風呂が使えなくなるなんて、一体誰が予測しただろうか
風呂場の蛇口から何やら赤錆のようなものの混じった水が出てきた
まぁ、普通に入る分には気にならない量なんだけどね。と姉がおどけたように肩をすくめて、それを受けた母が、大したことはないだろうけど念のため業者さんを呼んで見てもらいましょう。と同じく笑いながら受話器を取ったあの時、伊月家全員がまさかこんなことになるなんて、全く予測していなかったのだ
「水道管が完全にいかれてしまってますね…って冗談きついよ」
電話を受けてやってきた、如何にも人の良さそうな水周り業者のおじさんの眉間に刻まれたシワを思い出しながら、おじさんが言ったままをため息とともに呟く。曰く、水道管の老朽化。思っていたよりもずっと悪い状態で、この手のトラブルは風呂の水道管を全て新しいものに取り替えるしか処置のしようがないらしく、その工事にも時間がかかるとのことだった。当然その間伊月家の風呂は使えない。夏場のこの蒸し暑い時期に、だ
しかも業者のおじさんが言うには、いっその事風呂場自体を改装工事した方が、時間はかかるものの長期的な目で見た時に経済的に安く済むとのことで、それを聞いた母が風呂場の全面改装を依頼することとなった。繰り返すが、その間伊月家の風呂は使えない。この凶悪なまでの最高気温を記録し続ける地球温暖化真っ盛りの夏に、だ
最悪だ、と思った
ただでさえ暑いこの夏。加えて伊月はバスケ部に所属している。ハードな運動の後に汗を流すぐらいなら――滅多に使ったことはないし、そもそもあるのかどうかも分からないのだが、まぁ、部室棟にあるシャワー室を借りればなんとかなるかもしれない
だが湯船にゆっくりと体をつけながらその日の部活での反省をすることが風呂に入るという行為の意義であると言っても過言ではない伊月にとって、自宅でゆっくり風呂には入れないということは、仕方ないとは言え勘弁願いたかったのだが……背に腹は変えられない
と言った思考が顔に出ていたのか、姉に「俊はまだいいじゃない。言ってるうちに合宿行くんでしょ」と呆れられたのはここだけの話だ
斯くして、伊月家の風呂場の工事が始まった
その間、伊月家の入浴は近所にあるボロ…随分と年季の入った銭湯で済ませることになったのだった
*
「お疲れー」
「おう」
「お疲れっす」
「おつー」
「お疲れ様ですー」
いつも通りのハードな練習を終えて夏用の制服を身にまとった伊月は、バスケ部の更衣室を後にする
ビニール製の部活カバンの中には、練習着とスポーツタオル、ネタ帳に筆記用具にドリンクに制汗スプレーなどに加えて、バスタオルとボディータオルとシャンプーにリンスにボディーソープにラフな私服。合宿にも持って行ける大きめのショルダーバッグは結構便利で、これだけいろいろ入っているのにまだ余裕が有る
幼い頃に一度、なんの気まぐれか父に連れられて行った件の銭湯が学校からの帰り道にある事を思い出した伊月は、家の風呂が使えない状態になった日から部活後に銭湯に寄って帰宅することにしていた
初日こそシャンプーを忘れて一旦帰宅しなければいけない嵌めになったり、設備や利用のシステムに手こずったりした伊月だが、流石に二度目からは慣れてくるもので、今日などは自分の記憶よりも更にボロ…趣のある佇まいになっていた銭湯の、広い湯船がたったの数百円でほぼ一人占めに出来るというのが酷く魅力的で、少しだけ楽しみになってもいた。そりゃもう、部活疲れでだるいはずの体が、思わずスキップしたくなるような軽い足取りになるくらいには
学校からバスに揺られての帰宅途中、いつもより二駅早いバス停で降車する
大通りから角を内側に曲がり、住宅街を歩く。そこから周囲の住宅から少し飛び抜けた高い煙突を目印に徒歩五分。突き当たりの角を右手に曲がったところで伊月は、少し意外な人物の後ろ姿をすぐ目の前に見つけた
伊月が持っているビニールバッグと同じ、オレンジ基調のものを肩にかけた、背の高い、特徴的な明るい蜂蜜色の髪を持つ夏の学生服
「…秀徳?」
「あ?」
夏の夕陽を反射して輝くハニーゴールドが伊月の小さな呟きに振り返り、不機嫌そうな鼈甲色の大きな双眸がこちらを捕らえたのを見て、鷲の目は、え、あ、すみません。と謝罪の言葉を口にする――まさか聞こえるなんて
そんな伊月の様子を見て、相手の方もはっとした表情になる。知り合いだと気付いたようだ。確かめるように形の良い唇が一言を紡ぐ
「誠凛の正PG?」
「伊月です。えっと…」
「…宮地だ。宮地清志」
合宿以来だな。と宮地は少し表情を柔らかくして伊月を見据えた。そうですね、お久しぶりです、と言葉と共に、宮地の隣に並んだ伊月は頭を下げて挨拶をする。そのまま自然と二人は歩調を合わせて歩き始めた
「部活帰りか?」
「そうです。宮地さんもですか?」
他愛ない話をしながら伊月は、隣に並ぶ宮地を観察することにした。試合や先日の合宿で何度か顔を合わせた事はあったが、そう言えばこんなに近い距離で会話をするのは初めてだった。道理でお互い名前を覚えていなかった訳だ
必然的に隣に並ぶ機会もあまりなかったので気付かなかったのだが、宮地は思ったよりも身長が高い。秀徳には背の高い選手が多いので目立たないが、誠凛でこの身長となると、火神や木吉ぐらいだろうか。つまり百九十センチはあるという事になる。百七十四センチの伊月との身長差は、十五〜十八センチぐらいだろうか。その身長に見合うように、筋肉もしっかりと付いているようだ。全身は制服に包まれていて分からないが、露出した長い腕は伊月よりもよっぽど逞しく、頼もしい
色素の薄い髪は指通りの良さそうな猫っ毛で、彼が歩く度にふわふわと揺れた。高い鼻筋と形のいい唇、肉つきの薄い頬は年相応なのに対し、光を称えた大きな瞳は少し実年齢よりも幼い印象を抱くが美形には違いない
ここまで完璧な容姿に、学力面でも優秀と名高く、バスケでは東の王者と称えられる秀徳高校の正SFという肩書。間違いなく学校の内外に関わらず女性からの人気は高いだろう、と言うのが一通り宮地の全身に視線を巡らせて伊月が出した結論だ
事実先程から、数は多くないもののすれ違う女性が皆、こちらを振り返ってまで見ている
「宮地さん、この辺り地元なんですか?」
歩幅の広い宮地に合わせて歩こうとすると伊月は少し早足になる。宮地の迷いのないその足取りはこの辺りの地理に明るい人間かつ目的地の決まっている人間のそれだったので、伊月は気になっていたことを尋ねた。伊月家からバス二駅分離れているとはいえ、この近辺も伊月が通っていた中学の校区だ。もし宮地の自宅がこの周辺だとすれば、必然的に宮地は伊月の中学時代の先輩と言う事になるが、伊月は中学で宮地を見た記憶が無い
だがしかし、恐らく自分の記憶違いで、実は同じ中学出身なのではないか、と伊月は思っていたのだが
「あ?ちげーよ」
あっさりと宮地に否定される
「家はもっと東だ。秀徳の近く」
「え?じゃあどうして部活帰りにここへ?」
疑問符で頭がいっぱいになった伊月に、宮地が言葉を続ける
「じーちゃん家がこの近所なんだよ。んで、今帰省中」
「帰省って、お盆過ぎましたよね?」
「親の仕事の都合でうちは毎年この時期なんだよ。都内だから部活もじーちゃん家から通ってる」
だから帰宅途中。と宮地は少し眉を下げて言う。間違ってねーだろ?と言外に言う、悪戯の成功した子供のような表情に伊月はようやく合点が行った。なるほどな
「お前は?この辺に住んでんのか?」
「いえ。俺の家はもう少し離れていますよ。バスで二駅ぐらい向こうです」
「はぁ?」
今度は宮地の頭にクエスチョンマークが飛び交う番だった。綺麗な顔が疑問に歪んでいる様は、それさえも絵になると伊月は思った。そのまま黙って数歩歩いたところで、ピタッと伊月が止まる
「伊月?」
「あ、すみません。俺ここが目的地なんで」
そう。喋っている間に二人は、バス停から見えて居た煙突の麓、つまり件の銭湯の前まで来ていたのだった
正面同士伊月と向き合った宮地が相変わらず?を頭に浮かべながら、首をこてんと右に倒す。瞳が動いて、伊月と、その背後の綺麗とは言い難い銭湯の入り口を見比べている
「いや、何で銭湯?」
疑問がそのまま口を滑り落ちたような、小さな声。思わず伊月はクスリと笑ってしまう。あんだよ、と少し不機嫌な宮地の顔に、すみません、と謝罪を口にして
「うち、風呂が壊れちゃって」
目を細めて伊月が答えると、ようやく宮地は納得したかのように、ああーと声を出した
「このくそ暑い時期にそりゃつらいな」
「ほんと、災難ですよ。でもここのお風呂、広くて人が少なくて。設備はちょっと古いですけど、でもとても居心地がいいんです。だからなんだか気に入っちゃって。たまにはお金払って大きなお風呂もいいかなーなんて」
嘘もお世辞もない、背後の銭湯に対する正直な感想を伊月は述べる。確かに見た目も中身もとても古い。だがしかし、慣れてしまえばそんなことは気にならない。それを有り余って魅力的に映る広い湯船に早く浸かりたい、と思う一心から、伊月は急いで、だがしかし先輩に対して失礼にならないように気をつけて、それじゃ、今日はありがとうございました。と宮地に背を向け暖簾をくぐろうとしたところで
「ここの湯船、広いのか?」
「はい?」
振り返ると宮地が、真剣な顔をしていた。何かを思案しているようだが、どうしたのだろう。気になったが、先ずは質問に答えるのが先だろう、と伊月は口を開く
「広いですよ。広い上に、今日は平日ですし、時間も比較的早いので、伸び伸び出来ます」
すると宮地は、ふぅん。と何かを考え込んでいたが、どこか決意に満ちた瞳で伊月を真っ直ぐとらえて一言。待っていろ
「え?待ってろって…」
「俺もお前と一緒に入るわ」
「はぁ!!?」
「待ってろよ」
呆気にとられる伊月を余所に、ひらりと手を振って宮地は小走りに去って行った。かと思うと数十メートル先で伊月を見て、叫んだ
「なぁー。タオルとかって有料で借りれんのかー?」
*
結局、伊月は言われたとおりに銭湯の前で宮地を待って、風呂を共にする運びとなった
暖簾をくぐった二人を待ち受けていたのは、奥行きが狭く横に広い十畳間の受け付け兼待合スペースだ
外観の寂れた印象をどこまでも裏切らない、歩くたびにギイギイと音を立てるフローリングや隙間風があちこちから吹き込む壁と言った内装を筆頭に、向かって右には座面部分が所々破れクッションが剥き出しになっているのをガムテープで何とか塞いでいる三人がけのソファが向かい合わせに二つと、ソファのどの位置に座っても見えるように高い位置に設置されたブラウン管のテレビは今日も電源が入っていないようだ
正面には番台に座ってニコニコ笑うおじいさんと、おじいさんが聞いているのだろうプロ野球中継のラジオも合間ってどことなく時代に置いて行かれたようにも見え、何と無く哀愁漂っている。伊月にとってはここ数日で見慣れた光景だったが、ふと宮地を見やると、それらを興味深そうに視線を動かしながら見ているようだった。こういったところにくるのは初めてなのかもしれない
左手に見える申し訳程度にカラカラと音を立ててゆるく首を降り涼風を送る扇風機では、真っ正面に立ったとしても外の熱気に当てられた肌を申し分程度にしか冷やしてはくれないが、これから湯で汗を流すのだから対して気にならない。その直ぐ隣の壁には、一回百円で稼働するらしい、存在感のあるマッサージチェアが佇んでいる
「男二人、お願いします」
若干耳が遠いらしい番台のおじいさんに、いつもの声より気持ち大きめに伊月は声を掛けると、宮地と二人分の料金を支払う。相変わらず宮地は伊月から離れたところでキョロキョロと飽きもせず店内を見ていたようだったが、声を掛けると伊月のあとに続いて番台の向かって左奥の藍色の男湯の暖簾をくぐった。立て替えた料金はあとから請求するつもりだが、尋ねられるまで言わなくてもいいだろう
どうやら今日も客は他にいないようで、他人事ながらに伊月は今日も、よくこれで経営が成り立つものだなぁなどと失礼なことを思ったりしたが、宮地の感想は少し違ったようで
「あのじーちゃん、この店大事にしてんだなー」
と伊月の隣で帰宅したついでに制服から着替えてきたTシャツと綿パンツを脱ぎながらしみじみと呟いていた
脱いだ服と荷物を各々まとめて自分のカゴにいれロッカーにしまい込むと、風呂場の入り口を開く。真正面に富士山の絵が見えた
タイル張りの床を裸足で歩いて、伊月は富士山の麓、大きな湯船の前にしゃがむと、掛け湯をしてゆっくりと湯の中に身を沈める。宮地は先に体を洗ってから湯船に浸かるつもりらしく、たくさん並んでいる洗い場の一番湯船に近い所に座り、蛇口をひねろうとしたところ、どうやら湯が出なかったらしい
「伊月ー。蛇口回んねーんだけど」
「上に引っ張り気味に回せばお湯が出ますよ」
伊月の言う通り、少し引っ張り気味に蛇口を回すと湯が出たらしく、おおーありがとなーと言いながら宮地は洗面器に湯を溜め、タオルを付けて体を洗い始めたようだ
推定系なのは伊月が宮地を見ずにタオルを頭に乗せ、全身の力を抜きながら情報の湯船に背中を預け、目を閉じていた為である
正直、かなり気まずい
今日も今日とて広い浴槽と、程良い湯加減は心地良く、部活で疲れた体がほぐれていくようで気持ちがよかったが、何故他校の生徒、それも殆どさっきやっと二人きりで話したばかりの先輩と風呂を共にしなければいけなくなったのだろう
バスケの事では恐らく会話に事欠かないぐらいに盛り上がれるだろう。東の王者と歌われる秀徳のレギュラー宮地がバスケ馬鹿でない要因が思い当たらない。だがそれ以外の会話で伊月と宮地でなにか共通点が有るかと言われると、正直伊月には思い当たる節が無い
伊月が宮地について知っている情報など、たかが知れているし、それは向こうも同じだろう
そんな相手と二人きりで裸になって風呂を共にするなんて、楽しいのだろうか。答えは否。さほど社交的でない性格も手伝って、伊月は気まずくて仕方ない
だがそれは余程社交的な人間でもない限りそういうものだろう。つまり宮地も同じくらい気まずいはずだ。普通に考えれば
だが宮地は伊月について来た。そこにどんな思惑が有ったのかは、伊月は宮地でないので理解出来ないし、気にはなるが理解しようとは思えない
だが、伊月が感じる宮地への気まずさは、そう言った人見知りの類が全てではなかった
上方に向いていた首を正面に戻し、目を開ける。必然的に宮地の体が視覚的情報として脳に飛びこむ。彼は大きな手と節くれだった指で、蜂蜜色の指通りの良さそうな髪をガシガシと洗っている
一糸纏わぬ姿になった宮地は、服の上からの想像通り、全身に綺麗に筋肉が付いており、バスケ選手として体格的に恵まれていない伊月は自分の腕や足の筋肉と比較して溜息をつき瞼を伏せる
比較的小柄な誠凛の中でも伊月は細い。同じ練習メニューで鍛えているはずなのに、筋肉の付き方が他の部員たちと比べて薄く、そのことをコンプレックスに感じてもいる
それでも伊月が誠凛の正PGという立場に居るのは、特殊な鷲の目を持つが故であり、不器用な自分の唯一の取り柄であり、ついこの間までは、この目が有る限り体格や技術で劣っていてもなんとかなるだろう、と甘い考えを持っていたのだが
「それじゃ、だめなんだよな…」
「あ?何か言ったか?」
思わず漏れた独り言に、思いがけず近い場所から声が聞こえてきて驚く
目を開けると宮地は伊月のすぐ隣で湯につかっており、不思議そうな色の瞳がこちらを覗き込むように見ていた
「何だよ。轢くぞ」
物騒な事を言いながらも、宮地の表情はどこかこちらを心配しているように見える
だが伊月は、ゆるく首を振り
「いえ」
なんでもありません。と、口にする
本当は、分かっているのだ
幾ら僻んだところで、差は埋まるわけではない
不器用な自分に出来ることは、人の倍の努力だけ。それを怠って、この目は自分だけの武器だと胡坐をかいていただけ。そんなもので通用するほど、全国は甘くないし日本は狭くない
自分よりももっと優れた目を持つ選手が現れる事を、どうして想定していなかったのだろう
鷹の目をした一つ年下の彼の顔が思い浮かぶ。インターハイ予選決勝での秀徳戦、伊月一人では高尾は攻略できなかった。あの時感じた、才能の差
チームメイトの活躍で、結果的に試合には勝てた。勝利の味に苦味が混じるのを、伊月は無視した
その後の決勝リーグでの惨敗。あの時流した涙の味は塩辛く、溺れてしまいそうだった。秀徳戦で感じた苦味は、無視できないほどに伊月の喉に競り上がってきて、存在を主張していた
それからの練習の中で、伊月は毎日、得体の知れない苦みに苦しめられた
あの日から何日も過ぎた筈なのに、日に日に苦味は増し、ついに舌の上にまで苦い味が纏わりつき出した頃、あの合宿が始まった
「お前な」
「!?」
伊月の思考が暗い回想に沈んでゆこうとして居たのを、思いがけない衝撃で現実に引き戻された。宮地が伊月の頬を抓ったのだ
「何悩んでんのか知らねえけど、一人で俯いてんじゃねえよ」
抓った手の力をそのままに、宮地は伊月の白い頬を引っ張る
「い、いひゃ!いひゃいですみやひさん!」
「うるせえ、黙ってろ」
力加減をしない大きな手が、長い指が一瞬更に強く伊月の頬を引っ張り、やがて離れた。解放されたそこを伊月がさすっていると、宮地は一つ鼻で息をつき、明後日の方向を見ながら
「あのな。勝者が拗ねてんじゃねえよ」
まるで伊月がそこに居る事を無視するような口調で、語りだす
「誠凛は秀徳に勝ったんだぞ。それが偶然だったにしろ必然だったにしろ、勝つ可能性が無い奴らが勝てるわけねえんだ。それ相応の努力が有ったから勝ったんじゃねえのか
例えそれが納得いかねえ勝利だったとしても、納得できねえなら納得できねえで、俯いてねえで次納得できるように努力するのが、敗者に対する礼儀なんじゃねえの」
本当は、分かっていたのだ
得体の知れない、なんて嘘だ。この苦みには身に覚えが有った。幾度となく口にした敗北の味だ
中学時代、一度も公式戦に勝てなくて、毎日舐めていた味。去年、三大王者すべてにトリプルスコアで敗れた時にも感じた味
勝利の美酒に酔い過ぎて、現状に甘えて忘れてしまっていたその苦味
いつまでも感じていていい味覚ではない
いつまでも負け犬ではいられない
合宿の最中(さなか)、秀徳との練習試合の機会が有った事は、本当に良かった
あの合宿を気に伊月は、もう一度努力をするきっかけを見つけられた
試合中は気付かなかったこと。間近で見る秀徳の選手たちはみな、何らかの目標を持って練習に取り組み、真面目にそれぞれの課題を見つけ、努力していた
今隣にいる彼も、そのうちの一人だ
最初のうちこそ同じポジションの高尾ばかりに気を取られていた伊月だったが、同じ体育館で合同練習をするうちに、一番遅くまでボールを持っていた宮地に注目するようになっていた
そして気付く。彼は誰よりも、己に対して、厳しかった
己の才能を過信し、敗北に囚われ、動けずにいた伊月が走り出すきっかけを与えてくれたのは、宮地だった
このままではいけないのだ。このままでは終われないのだ
「宮地さん」
声を掛けると、宮地は伊月を真っ直ぐに見た。光を多く称えた鼈甲色の瞳に向かって、伊月は宣戦布告する
その目はもう、淀んでいなかった
「冬は、負けません」
夏に勝利したのは誠凛だ。しかし宮地は、冬も、の間違いではないのかと訂正をしなかった。伊月が言葉に込めた意味に、思い当たったらしい
「ああ。俺らも負ける気はねぇよ」
悪戯に微笑む王者は、今度は対等な立場で、挑戦者と対峙してくれるらしかった
「ところで今更なんですけど、どうして俺と一緒に風呂に入るなんて言ったんですか?」
「他意はねえよ。じーちゃんち、風呂が狭くて手足が伸ばせねえんだ……この風呂広くて極楽だな……」
これから帰るまで毎日通うかなあ、なんて零す彼には、まだ言わなくてもいいだろう
俺が走り出すきっかけを与えてくれたあなたは、俺のあこがれの先輩です。なんて
*
長風呂な伊月に対し宮地は早風呂派だったようで、のぼせそうだから先上がるわ、と風呂を上がった
しばらくして伊月も又、風呂を後にし、ラフな私服に着替えて待合スペースに出ると、宮地は店主のおじいさんとなにやら楽しそうに喋っていた。会話の内容をそれとなく聞くと、ラジオのプロ野球中継に対して二人で盛り上がっているようで、ここでスリーアウト!とラジオが告げると二人で盛大にああー、だの、惜しいー、だの声を上げていた。楽しそうで何よりである
「おう、伊月」
伊月と目が合うと宮地は口元に愛想のいい笑みを形作って、こちらに寄って来た。一旦おじいさんを振り返り、じゃあなじーちゃん!またばーちゃんの話聞かせてくれなーと笑顔で挨拶をすると、店の入り口に向かって歩き出す。それを見て伊月は、慌てて自分もおじいさんに、今日もありがとうございました、と頭を下げ、宮地を追った
並んで歩く帰り道。外は夕闇。一番星が輝いている
特に会話もないまま、五分ほど歩いたところで、宮地が止まる
どうやらここが、彼の祖父母宅らしい
「金払うからそこで待ってろ。俺の分立て替えてくれてんだろ」
と言って宮地は玄関をくぐり、暫くすると財布とアイスクリームを手に伊月の前に現れた
「やるよ」
差し出されたアイスクリームに伊月は戸惑い、遠慮しようとしたが、大人しく貰っとけって言ってんだろ、燃やすぞ、と脅されてしまっては、受け取るしかないだろう
「あ、ありがとうございます」
「おう」
伊月が大人しく差し出された物を受け取ったのを見て宮地は、また明日な。と家に入って行った
伊月はしばらくその場に立ち尽くしてしまっていたが、はっと我に帰り、帰路を行く
明日も、会えるのだろうか
口に含んだアイスクリームは冷たく、こめかみが冷えた気がしたが、風呂上がりの頬は何故か熱くてたまらなかった
fin
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