あいつが機材を組み立てる音がする
どうせ何も手伝えることが無いので、終わるまで、階段の扉に背を預けてケータイをいじる
特にメールをするわけでもないし、ウェブを見る訳でもないし
音楽を聴く気にはなれないし
そんな訳で、さっきから特に何をするわけでも無く
ただひたすら、液晶を見ながらボタンを操作する
カコカコ、カコカコ
「今日は、月が綺麗なんだってさ」
そんな会話をしたのは晩飯の時
ことり、とサラダのボウルをテーブルの中央に置きながら、アキラが言っていた
俺はと言うと、月がどうとか星がどうとかって言うのは特に興味が無くて
箸をつつきながら曖昧に、ふぅん。と返事をするだけだった
「相変わらず興味がなさそうだな」
わかっているくせにアキラは、ふふっと笑って手を合わせる
「綺麗とか、綺麗じゃないとか、基準がわかんねぇもん」
俺の感覚でその時のそれが綺麗だと思えば、だれが言おうと綺麗なんじゃねぇの?と言えば、
一理有るね、と言ってアキラは味噌汁を啜る
「でも例えば今日の月が何百年に一度の綺麗な月だって天文学者全員が口を揃えて言うなら、気にならない?」
「何百年に一度も何も、今日の月は今日限りなんじゃねぇの?日々変化するからその時々一瞬が綺麗で掛け替えのないものだから大切にしたいなんて、お前この間言ってたばっかりじゃん」
正確に言えばその時話してたのは月の話ではないのだけれど
いや、そもそも今日の月が何百年に一回レベルの綺麗な月かどうかなんてきっとアキラは関係ないのだ
「見たいんだろ?」
「諒と一緒にね」
ほら来た
「……何時から?」
ご飯を口に入れながら、俺はこの時初めてアキラの顔を見た
「夜中二時過ぎぐらいかな」
度のきつい眼鏡越しにその黒目は、作戦成功、とでも言いたげに満足気に細く笑っていた
ひゅう、と、冷たい風が吹いて、身体が小さくなる
寝巻にしている灰色のスウェットの肩に、黒いダウンジャケットを羽織っただけの体には、この時期の風は冷た過ぎる
「寒っ…」
小さく呟いて、肩に引っかけているだけだったダウンジャケットの袖を通すと、アキラがこちらを見た
「風邪引くなよ」
聞こえていたらしい。結構離れているのに相変わらずだ
「お前こそ」
厭味を含ませて今度はしっかり聞こえるように、顔を上げて呼びかける
お気づかいどうも。なんて余裕の声が聞こえて、俺は又ケータイをいじる
と言っても、やっぱりすることなんて何にもなくて
液晶が少し眩しい。画面の明るさを変えた方がいいか
設定画面で少し設定を調整して
どうせ暇なんだ、画像の整理でもしよう
思い立ってピクチャフォルダを開く
なんてこと無い、風景とか、綺麗だな、珍しいな、と思った物の写真整理
アキラは律儀にどこかに出かけるたびにデジカメを持って行くけど、俺は基本的にケータイと財布と体一つでどこかへ出かけるタイプだから
この間、ちょっとアキラと遠出をした
その時撮った海の生き物の写真
育った街は海なし県だった
東京へ出てきて初めて、海風を知った
夜の東京湾を二人で散歩した事もあった
その時にそうだ、あの時は俺が確か
折角海にまで来たのに泳げねぇなんてな、って言ったんだ
何が見たい?と次の日唐突にベッドで聞かれた
訳がわからずは?と言えば、泳ぎたいんじゃなくて、魚が見たかったんだろ?なんてからかわれた
結局その時も、アキラが魚を見たいだけだったんだ
どうせなら遠出がしたいね。と言われて指差された目の前のパンフレットには、関西の某水族館が載っていた
夜のツアーが、そこにはあった
男二人で?と問えば、男二人で。と笑みを深くされた。本気だ
結局あの時も俺が折れて、学校帰りの夜行バスで関西まで出たのだった
画像を整理していた指が、一つの写真の上で止まる
白くて丸い、ふわふわした生き物
海の月、水の母、そんな風に呼ばれることもあるのだと、アキラが言っていた
ゆらりゆらり、優雅に流れるように泳ぐクラゲは、何故だろう、とても神秘的だった
その水族館にはクラゲだけの展示室が有って
人々は皆、お気に入りのクラゲの前で口ぐちに綺麗と言っていた
俺達も、綺麗だな、なんて言いながら写真を撮った
アキラはムービーまで撮っていた。つい昨日なんてデジカメをテレビに繋いで再生していた
もちろんその横には俺も居た。ソファに並んで座ってクラゲを見ていた
周りの雑音も一緒に録音されていたけれど、俺達二人の声は全然入っていなくて
随分と長い間、あの白い生き物に魅せられていたんだな、なんてぼんやりと考えていたんだ
その時にそうだ。綺麗綺麗じゃないの基準は人それぞれだけど、こうやって共有できる物が少しでも多ければいいなんてアキラが言っていた
だから今回もそうなのだ。アキラは、月が綺麗かどうかなんて関係ない
ただ自分が見たい物、綺麗だと思う物を、俺と共有したいだけ
俺が強く拒めば、アキラは無理に俺を誘わない
共有したいのは時間じゃなくて、気持ちなのだとアキラは言っていた
綺麗だな、と言う気持ちを、一人ではなく二人で、感じたいんだ
そんなことは言われる前から俺だって分かっている。伊達に幼馴染をやっているわけじゃない
だから俺はアキラを拒まないし、興味が無い振りをしていても出来るならこの先もずっと色んな物を共有したいなんて思う
クラゲのファイルを纏めて選択して、特別なフォルダに入れる。その作業が調度終わったところで
「諒平。おいで」
天体観測用の望遠鏡を組み立て終えたアキラが俺を呼ぶ
カコン、とケータイをスライドさせてポケットに入れる
都会の夜は、相変わらず明るくて
高層マンションの屋上から見降ろす国道はこんな時間にもかかわらず忙しく点滅を繰り返す
そんな明るい夜だから、星なんて地元に比べれば全然見えない
アキラに近づきながら何気なく上を見上げると、白い月が有った
天体望遠鏡は、ご丁寧に俺の身長に合わせてその月を向いていた
「覗いてごらん?」
ダウンジャケット越しに、右肩に手が添えられる。温かい
促されるままに見た月は、クレーターの形までハッキリ見とれる
明る過ぎる地面も、星の見えないくらい夜も、そこにはない。ただ月だけが、真っ直ぐ見える
「きれい…」
気付けばそう零していた。肩に、背中に、アキラが近くなる
「な?見て良かっただろ?」
そこで素直にうなずくのは、何となく癪だ
それでも正直に、綺麗だと言う。俺だってお前と気持ちを共有したい
「なぁ、これ写メ撮れる?」
「どうだろう。顕微鏡で拡大したミジンコは撮れるみたいだけど」
やってみれば?と促されて、ついさっきポケットに入れたばかりの冷たいケータイを取り出す
一応、夜景モードに設定して、望遠鏡の覗き口にカメラを近づける
♪
「どう?」
撮影したばかりの月を、アキラに見せる
「へぇ。綺麗に撮れるんだね」
こんなことならデジカメ持ってくればよかったな、なんてアキラが拗ねるから
「後でメールで転送してやるよ」
仕方ねぇな、と肩を竦めてみる
「どうするの、それ。待ち受けにでもする?」
「ばぁか。しねぇよ」
しない代わりに、こっそりと特別なフォルダに保存をするのだ
誰にも見せない、特別なフォルダに
それからどのくらい、月を眺めていたんだろう
アキラが機材を片付ける音がする
寒いなら先に戻って良いよ、と言われたけども
少しでも長く傍に居たいと思うのは、俺の勝手だろ?
お前は気持ちだけでいいかもしれないけど
出来れば俺は、時間も共有したい
暗い海を泳ぐ月のように
穏やかな時間を、ゆらりゆらりと
fin
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