『明日帰る』


幾度目か分からない数書いた言葉を、また一つ増やしてしまう。最初にこの習慣を始めたのがいつかも、もう思い出せそうにない
世界地図の上、次の行き先を起点にして書いた文字列の意味に、気付いてほしいとは思っていなかった。誰に宛てたという訳でもない。次の目的地にも、知り合いなど居ないのだろう

見つけて欲しいなどと、思っていない


だが、感情とは裏腹に、誰も読む筈もない書置きをつい書いてしまうのは、心のどこかで誰かに探して欲しいと思っているからだろうか。簡単に纏めた手荷物を持って、昨日までの住処の戸を静かに閉める
丁寧に錠を落とし、鍵をとりあえずポケットに入れる。いつも通り、住み慣れたこの町を抜け出たら捨ててしまうつもりだ
砂漠の街の天気は、下り坂に向かいそうだった。分厚い黒い雲が西の方角に見える。心なしか空気も少し湿っぽい


町外れにつく頃には、降り出してしまうだろうか



旅芸人がよく集まる街だった

未熟な詩人が下手糞な歌に幼い愛の言葉を乗せて叫ぶのを遠くによく聴いていた気がする



大切な誰かへの言葉を無くしたのは、いつだったろうか

無くした?違う。手放してしまったのだ



忘れてしまっていた声と顔を思い出す。懐かしい
衝動に駆られて飛び出してしまったのは、もう数えるのも馬鹿らしくなってしまうような遠い遠い昔
一人になってから無愛想に拍車がかかり、無口になってしまった故の代償
この声帯が機能しているのかどうか、自信が無い

会話をする必要が無くなった。声を出さなくても生活できてしまう。一人になってしまったが故の代償




気付くと真下の地面に黒い影ができていた。暗雲は、思っていたよりずっと早足で近づいて来ていた


安売りのように、愛している、好きだと未熟な詩人が歌うのが、風に乗って今日も遠くから聞こえる。もはや雑音でしか無いと長い間感じていた拙い旋律。だがしかし、それでも誰かを傷つけてしまうよりずっといいのかもしれない



馬鹿みたいだ



遠い昔のあの日のことを思い出すと、今でも心が苦しかった

悪い事をしてしまったと、今なら言える
けれどもう、帰ることなどできない



帰ってももう、出迎えてくれないのだから

風の噂で聞いた。生まれ育った故郷はもう、誰も住んでいないのだと



雨が降り出す前に、町の外へ出たかった



砂の海の真ん中で鍵を埋めたら、楽になれる気がした



雨雲が引き連れてきた風が、足跡を全て消してゆく
どこから来てどこへ行くのか分からない現状を叩きつけられているようで



やがて土砂降りの雨が降る。足元を幾重にも流れて行く小さな川が見えた


嵐の轟音に紛れるように、声をあげて泣けることに、少し安堵してから、振り返らずに目的地へと歩みを進めた



すまなかった、と



あの家に帰る事は叶わなくとも、今なら、朽ちた墓の前で、詫びれるだろうか



「明日、帰る」



何百年越しの、約束








































fin