『明日帰る』


黄ばんで脆くなった紙に残された、少し癖の強い筆記体
家の中央のテーブルに、見つけた時のまま置いてある

これを書いた本人は、少なくともこの大陸には居ない。見つけたその日に行きそうな場所を徹底して捜した。何か書置きする時は、行き先や帰る時間だけでなく出掛けた日時まで細かく書き置く人だった。何か、有る――変な胸騒ぎがしたのだ

途中、昔よく立ち寄っていたパブに寄って、腕の確かな情報屋に尋ねてみた。必死に捜してくれたらしいが、それでも行方は掴めなかった。知り合い全員に聞いて廻ったけれども、それも無駄足だった

しばらくの間そんな風に毎日を過ごし、もしかしたらそろそろ帰ってくるのではないかと淡い期待のようなものを抱いていたことも有った。けれども、それも裏切られた
帰る なんて、嘘でしかなかったのだ


嘘など、数えるほどしか吐いたことのない人だった。それもこんな酷い嘘を吐いたことは一度としてなかった


これから二人で共に励ましあいながら生きてゆこう、と約束した。それも嘘だったと言うのか
妹が結婚して急に遠くなってしまったあの日の約束は、それを告げた時に見せた柔らかな同意の声は、同じくらい穏やかな表情は、それさえも偽りだったと言うのか……………



『明日帰る』


寄りによってどうして世界地図なんかに託を書いたのかはわからない
古びた紙に黒い文字だけが色褪せることの無く残っている
最近ではその色が書き手の意思の強さを比喩しているようにさえ思えてきた

『明日』が何時来るのかなんて、もう疾の昔に考えるのは止めた。意味の無いことだと気づいたのだ。一人になってからもう何年経ったか。それを数えるのも止めてしまった。唯唯空しいだけだと知ったのだ

そしてそれらに比例するように、残されたものを見返すことも無くなっていった

最後にあれをじっと見たのは何時だろう。もう随分と前のことだった気がする


しばらくぶりに重石になっている小さな花瓶を動かした。至る所に色んな匂いのする染みを付け、汚く黄ばんだ世界地図。それとは異なる、滲むことなく黒いままの綺麗な筆記体



「明日 帰る」



右手の人差し指で黒い文字を撫ぜながら声に出してみた。次に目を閉じて脳裏に浮かんだものを同じように音読した



「明日、帰る」



そうすることで、文体以外に何か篭められた文章が浮かんでくるような気がしていた
最後にそうしたのが何時の事かはもう覚えていないけれど――




少しの間を置いて、閉じていた視界を開いた。一番先に脳に映える黒。幾度か瞬きをするけれど、それでも目前の光景が変わるなんて事はない
有るのはただ、変わらない綺麗な筆記体の書かれた、黄ばんでボロボロになった世界地図

ため息を一つ吐いてゆっくりと右手を浮かせた。もう帰ってこないということは十中八九確信しているけれども、もしも十の中の一か二かが当たって帰ってくることが有ったのなら目の前に突きつけてやろうと、見つけたときのままに置いてあるのだ

書置きだけではない。いつ何時帰ってきても良いように家にある家具の配置は何一つとして変えていない。食器や寝具などの生活用品も何一つとして捨てていない
結局、頭の中ではほぼ九割戻ってこないと分かっていながら、腹の内では再び共に生きてゆくことを望んでいるらしい

実際、今はもう居ない兄弟の物を何度始末してしまおうと思ったことか。偽りの文字列だって幾度燃やしてしまおうと考えたことか
しかし、何時も決まってそれらに手を掛け様とした刹那、勝手に手が引っ込んでしまって失敗する。……………捨てられないのだ
今でも兄と言う存在に依存してしまっているのだと、その度に痛感してしまう



もう何度も読み返してきた伝言はやはり、変わることが無いものだと再認識し、花瓶を左の隅に置いて動かす前と同じ状態にした。変わったことといえば、新たに指紋が一つ二つ増えたことくらいだった




次に目に付いたその時こそ、燃やしてしまおうか…………

ぼんやりとそんなことを考えながら、テーブルから離れようと背を向けた








































fin